朝日新聞デジタルは、「福島第一原発事故後の除染について、政府が自治体に対し、今年度の計画達成は難しいことや、作業しても放射線量が下がらない場所の再除染を認めない考えを非公式に伝えていたことが分かった」と伝えている。
「作業しても放射線量が下がらない場所の再除染を認めない」とは、どういう意味だろう。
「作業しても放射線量が下がらなければ、やっても無駄だから、もうやらない」というふうに読めないこともないのだが、いくらなんでも、そんな馬鹿なことを政府が言うはずがない。
フクイチ事故により放射能汚染された地域は、人家周辺だけでなく、田畑・森林を含め、完全に除染されるまで、カネを投入しなければならない。
当然ではないか。
東京電力(とその株主)は、原発によってカネを儲けてきた。
東電発足以来、役員・社員に支払われてきた全報酬および、今まで株主に支払われてきた全配当を、遡って返上させてでも、除染すべきである。
原発を後押ししてきた官僚と政治家も同じである。
原発で作られた電気を脳天気に費消してきた、われわれ「日本」国民もまた、同罪だ。
除染のために使われる税がどれほどであろうとも、文句をいえる筋合いではない。
失われた命は帰らないが、汚染された地域は、消えてしまったわけではない。
汚された地域を復活させるのに、責任のある者たちが責めを果たすのは、当然ではないか。
雨がまだ、残っていたので、畑に出ることもできず、午前中は本を読んで過ごした。
『戦艦大和ノ最期』は、大和搭乗員による戦記である。
ここでも、いとも安易に、「特攻作戦」が立案され、実行された。
多くの若い人々が、散らさなくてもよい生命を散らした。
作戦立案に携わった誰も責任をとらず、亡くなった人々は「神」に祀りあげられた。
「国」を守るためだった、といえば、散らした命は慰められるのかもしれない。
しかしその生命は、「国」を守るのに、どれほど役立っただろうか。
この本に、このようなくだりが、あった。
救助艇忽チニ漂流者ヲ満載、ナオモ追加スル一方ニテ、危険状態ニ陥ル、更ニ収拾セバ転覆避ケ難ク、全員空シク海ノ藻屑トナラン
シカモ船ベリニカカル手ハイヨイヨ多ク、ソノ力(ちから)激シク、挺ノ傾斜、放置ヲ許サザル状況ニ至ル
ココニ挺指揮オヨビ乗組下士官、用意ノ日本刀ノ鞘ヲ払イ、犇(ひし)メク腕ヲ、手首ヨリバッサ、バッサト斬リ捨テ、マタハ足蹴ニカケテ突キ落トス |
轟沈し、大爆発した大和から投げ出され、かろうじて生きていた兵士たちは、駆逐艦初霜の救助艇に殺到したのだが、救助艇にかけた腕を、帝国海軍の下士官によって日本刀で切り落とされ、あるいは船べりにかけたその指を踏みにじられて、海に沈んだのである。
失われた彼らの命は、国を守るのに、どう役だったというのか。
大和の特攻作戦(天一号作戦)を立案し、決定してきた者たちの責任は、まったく問われずじまいだった。