山歩き
27年前の春に、アラレ混じりのひどい暴風に吹かれて、お昼過ぎに鉄山避難小屋に飛び込んだ。
そんな風は体験したことがなかった。
その後、冬の土湯峠あたりに何度か訪れて、安達太良の風がどんなものか、理解できた。
当時の鉄山小屋は、小屋ごと飛んじゃうんじゃないかと心配になるほど小さな小屋で、鉄板貼りの壁のすき間からさえ、けっこうな風が吹き込んで、その夜はかなり寒い夜を過ごし、翌朝、不用意に枕元においたペットボトルが凍っており、あせったものだった。
今回、鉄山に行ったのは、避難小屋を再訪したいという気持ちがあったからだが、身体がフワッと浮くほどの強風を味わいながら到着した鉄山避難小屋は、建て替えられてたいへん立派な小屋になっていた。
あまりの変わりように呆然としつつ、稜線とは別世界の静かな室内で、ささやかなティータイムを過ごさせていただいた。
安達太良連峰、センチメンタルジャーニィ・・・。
鎌沼と東吾妻山
終日、稲刈り。
今日のうちに終わりにできるかと思って取りかかった。
頑張ったのだが、無念の日没。
続きはまた明日。
写真は、鎌沼。
ここに来たのは、初めてだった。
今日も草むしりと潅水。
火曜日は、久しぶりにダブルヘッダー登山で、東吾妻山から下山ののち、鬼面山に行った。
鬼面山は例年、厳冬期に歩いているので、雪の全くないこの時期に訪れたのは初めてだった。
いつも暴風の土湯峠もそよ風で、足元にはリンドウ・ウメバチソウ・アキノキリンソウなどが可憐に咲いているのだった。
今年2月にはエビの尻尾で飾られていた山頂道標も、ごく日常の佇まいだった。
大除草。というより、大草刈り。
今年のネギは、雑草のためにほぼ全滅した。
雑草の残骸がまだ残っているので、ネギあとを耕すまで、片づけに今しばらく時間がかかりそうだ。
ニンニク予定地の耕耘。
大根・飯田冬菜ともに順調。
ハムシも出ていない。
ほうれん草発芽。
ポット苗の三陸つぼみ菜を鉢上げ。
写真は、草紅葉の酸ヶ平。
昨日は、避難小屋まで行って、ティータイムにした。
1991年にここへ来たときには、夏道は全く判明せず、沢状のところを左岸伝いに歩いてきたと記憶する。
1991年に春の吾妻連峰を歩いたとき、歩き残した東吾妻山を歩くのと、地吹雪の中駆け込んだ酸ヶ平避難小屋を再訪してみたいと思い、東吾妻山を浄土平から周回してきた。
鳥子平からの登山道はひどくぬかるんでいたが、景場平や山頂直下の湿原は、とてもよかった。
避難小屋はおそらく改修されており、昔の記憶は蘇らなかった。
谷川岳を歩いてきた。
これで5回目だが、9月に谷川本峰に行ったのは初めてだと思う。
登りは田尻尾根。
ここは初めて通った。
ゴンドラの下に見える道がそれかと思っていたが、そうではなく、西黒沢の右岸尾根を登る道だから、ゴンドラからは見えない。
まわりはブナの壮年林で、風情は悪くないのだが、きのこはツキヨタケしか出ていなかった。
冬型なので、麓は晴れていても頂稜は降ってることを覚悟して登ったのだが、山頂では、降ってはいなかったものの、ガスで何も見えなかった。
本日見た、珍しい風景その1。
田尻尾根出合から熊穴沢避難小屋に登っていくと、裸足で歩いている人がいた。
靴を履いてない理由は不明。
その2。
ビーチサンダルで天神尾根を往復していた外国人カップル。
サンダル履きなのに、岩混じりの尾根を、おれとほとんど同じスピードで歩いていた。
その3。
下山途中で会った犬。
上目遣いでコッチを見てるかと思いきや、すれ違いざま飛びかかってきた。
飼い主が止めたので実害はなかったが、たいへん驚いたから、寿命が少し縮んだかもしれない。
行きのカーラジオで「Across the Universe」がかかったのだが、歩いている間のみならず、帰宅してからも、「Nothing's gonna change my world」というリフレインが耳から離れない。
四日間の八ヶ岳から帰宅。
月曜日に、北八ツロープウェー山麓駅から歩き始めて、白駒池で幕営。
火曜日は、東天狗岳を越えてオーレン小屋で幕営。
水曜日は、硫黄岳・赤岳を越えてキレット小屋で幕営。
今日、権現岳を越えて観音平へ下山した。
長野県中部の天気は、火曜日が曇り以外は晴れていたことになっている。
しかし実際には、冷たい西風がずっと吹いていて、晴れた瞬間はほとんどなく、ずっと曇りときどき雨だった。
昨夜から今朝にかけては最も気温が低く、化繊のインシュレーションを含め、あるものをすべて着込んでシュラフに入っても、底冷えがした。
全山縦走したわけではないが、八ヶ岳を四日間歩いたのは初めてだった。
展望には恵まれなかったが、いい山行きだった。
湖北の小谷城址を歩いてきた。
いうまでもなく、浅井長政の居城だ、
戦国期の典型的な山城だが、支城でなく本城だから、規模が桁外れだ。
緻密に設計された、壮大な規模の軍事要塞である。
数千人の家臣団・軍兵が立てこもれば、落とすのは困難だっただろうが、浅井に対する怒りに燃える織田信長はあの手この手の調略と緻密な戦略で小谷城を圧倒した。
大手口から本丸に向かって歩いたのだが、曲輪や空堀が連続して、ここを攻略するのはいかにも困難だと思いながら登った。
小谷城は湖北に建造された戦艦大和のような存在だった。
信長は、城下一帯を徹底的に破壊し、焼き尽くした。
孤立した要塞は、持久戦に持ちこたえられない。
浅井の戦いは、絶望的だった。
アオスズラン
アオスズラン
北八ツ・亀甲池から双子池を歩いてきた。
大河原峠と双子山以外は静かでよろしい。
特筆するほどのこともないが、アオスズランがちょうどよい案配に咲いていた。
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