萩原勘次郎

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萩原勘次郎


 萩原勘次郎は秩父郡三沢村の人で、秩父事件当時22歳で自由党員。三沢村小隊長。身長は五尺二寸四分とあるから、今なら小柄な方になる。「物色票」には顔は長く立派で、人品がよい、と記されている。
 裁判言渡書に記されていることが全て真実かはわからないが、それによれば、女部田梅吉に誘われて、明治17年10月に自由党に入党した。武装蜂起後には、八面六臂の活躍を見せる。石間村戸長役場で武器の徴発、捕虜(青木巡査・千葉技師)の監督などを担当したあと、旗揚げの際には小隊長として指揮旗を携えて進軍。その後望遠鏡を預かって、蓑山で警官・軍の見張りにあたった。軽懲役8年に処せられ、判決から約1年後に獄死。
 言渡書に記載されているのはおおむね以上だが、実は勘次郎はもっと重要な役割を果たしていた。信州北相木村・菊池恒之助の言渡書には、明治17年9月に萩原勘次郎が「剣道指南」のために北相木に招待され秩父困民党の状況を信州に伝えている。勘次郎はさらに同年10月20日、再び北相木村に赴いて、同村の自由党員たちに困民党への協力を要請している。
 秩父から北相木へは、わき目もふらずに歩いてまる二日かかる。勘次郎はよほどの足達者だったのだろう。人品よく立派な顔立ちで、剣道を教えるほどの腕前ですばしこい若者とあって、困民党幹部からも重宝されたのだろう。
 まだ若いのに父母はなく、妻子もおらず、獄死したから子孫もいない。同じ地番から萩原縫次郎という人が事件に参加して罰金刑ですんでいるから、縫次郎がこのお墓を建ててくれたのだろうか。

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2024年4月

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