2024年5月アーカイブ

イチモンジチョウ

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イチモンジチョウ


 朝から農作業。

 のらぼうあとを耕して、いちご苗の植えつけ準備。
 草むしり。

 午後は秩父の図書館で調べもの。
 図書館は、ほんとにいいところだ。
 高校・大学時代は図書館で勉強ばかりしていたが、面白そうな本がたくさんあって、目移りしてどうしようもない。

 写真は、旧ムクゲ公園で見たイチモンジチョウ。

新玉

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新玉


 終日、農作業だが、昨夜、帰宅が遅かったので、スタートがやや遅れた。

 のらぼうの片づけ。
 今年もたくさん食った。ありがとう、のらぼう。

 かぼちゃの芽出しが芳しくないので、種のまき直し。

 玉ねぎはまだ熟していないが、じつは、熟す前の玉ねぎのほうが甘くて美味いのだ。
 とろけるチーズと胡椒は購入品。
 あるものばかり食ってる自分としては、これは贅沢。

ウラギンヒョウモン

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ウラギンヒョウモン


 今日も一日、農作業。

 まくわ瓜小苗の植えつけ。

 ピーマン苗の植えつけ。
 ピーマンは今朝まで室内の衣装箱に入れて育てていたので、太陽にも風にもあたったことがない。
 ちょっと心配だが、アンドンを掛けたし、明日は雨っぽいので、頑張ってくれることを期待。

 生姜の植えつけ。
 そら豆の剪定終わり。

 これからしばらくそら豆の収穫期になる。
 実をつけない細枝やモノにならない枝先など、不要な部分はすべて切り捨てる。
 そら豆がよくできたので、けっこう大変だった。

 雨が降り始めたのでそこまで。

 写真は昨日、旧ムクゲ公園で見たウラギンヒョウモン。
 ヒメウツギで吸蜜する新鮮な個体。

 アカショウビンの鳴き声を聞いた。
 梅雨が近づいている。

そら豆ご飯

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そら豆ご飯


 終日、農作業と森林作業。

 山は初夏の風情で、シジュウカラ・センダイムシクイなど野鳥がさえずり、イチモンジチョウ・サカハチチョウ・ウラギンヒョウモンなど蝶が飛ぶ。
 力仕事はもちろん苦労だが、街なかより森のほうがいくらか涼しい。

 きゅうり苗の植えつけ。
 西瓜苗の植えつけ。

 そら豆の剪定。一部のみ。
 そら豆ができ始まったので、不要な茎や芽先は切り捨てる。

箱根登山鉄道

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箱根登山鉄道


 箱根の滝めぐりコースで鷹巣山へ。

 小涌谷に下山したら、登山鉄道が動いていた。
 この前湯本に来たときはコロナ前だったが、台風による土石流で線路が流失し、復旧できる感じがしなかった。
 湯本駅の三番線に電車は停まっていたが、待合室として利用されていた。

 コロナのためこちらに来なくなって復旧したことも知らず、バスで帰るつもりでいた。
 箱根登山鉄道は、ありえないような急カーブを曲がったり、急坂を登り下りしたり、スイッチバックで方向転換したり、かつての日本を思い出させるすごい技術のかたまりだ。

 もうまったく気分よく下山できたので、湯本からロマンスカーにも乗ってしまった。

ウド皮

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ウド皮キンピラ


 雨があがってから農作業。

 トマト・四角豆予定地に、支柱ヤグラ建て。
 面倒な仕事がまた一つ終わってよかった。

 連日、ウドを食ってるんだが、ウドは皮をむいて食べる。
 皮はお料理には使えないんだが、ウド皮だけでキンピラにすれば、食えないことはない。

 とりあえず、イッパイ飲むにはこれで十分。

諏訪城址

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諏訪城址


 縦に長い前線が停滞して、雨が続く。
 畑の作物にはけっこうなことだが、雑草にとっても恵みの雨となるから、やんだあとが怖い。

 時間ができたので、溜まっていた書き物など。
 なかなか進まない。

 昨日は火曜日だったので、調べ物のために秩父の図書館に出かけたのだが、休館日だった。
 図書館まで、自動車で往復50キロ近くあるから、徒労感が大きい。

 今日の午前中、やや晴れ間が見えたので、気になっていた大野原の諏訪神社に行ってみた。
 道路は通じているのだが、道幅が狭く、普通車の通行はきびしいので、畑に行きがてら軽トラで。

 ここは室町後期の諏訪城址である。
 規模は小さく、おおぜいが籠城できるスペースはなさそうだ。
 何より本曲輪まで、一ミリも登る必要がない。

 それでいて、防御性は極めて高い。
 というのは、曲輪の西・北・東のいずれもが荒川と横瀬川の断崖によって、近づくこともできない。
 南は平地だが、堀によって画されているから、ここからの侵入も簡単でない。

 城主については諸説あるが、確たることはわからないとすべきだろう。

 秩父事件のさなかだった1884年11月3日に皆野村から大野原に退くとき、田代栄助がここに陣地を構えよと指示したのは、この城趾ではなかったか。
 史料には、その位置は下小川橋付近とあるが下小川橋と諏訪城址は300メートルほどしか離れていない。

 城址の現場でいろいろ考えてみようと思っていたのだが、驟雨が来たので、写真だけ撮って退散。
 思えば鉢形城を始めとして、荒川そのものが要害なのだ。

観能学校あと

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五日市観能学校あと


 終日、農作業。
 頑張ったおかげではかどった。

 きゅうり小苗の植えつけ。途中まで。
 アスパラ小苗の植えつけ。アスパラはこれで終わり。

 そろそろ赤くなってきたいちごに網掛け。
 三年目のとちおとめなんだが、去年と比べて実がえらく小さい。
 肥料不足の可能性もあるが、植えた苗がよくなかったのが原因かもしれない。
 早くもランナーがでているので、よい苗をたくさん作る必要がある。

 じゃがいもの土寄せ完了。
 今年植えたのは新しく開墾した場所なので、木の根や石ころがすこぶる多く、今ひとつモチベーションが上がらない。

 ネギの土寄せも終わり。
 冬に食えるネギはとても重要。

 家で、ビニールポットにエンサイの種まき。
 西瓜の鉢上げ。

 写真は、武蔵五日市駅近くにある東町観音堂。
 ここは五日市観能学校あと。
 お堂は小さいし、敷地も広くないのだが、かつてはもっと大きかったのだろう。

 ここで教えていたのが、千葉卓三郎だった。

 千葉卓三郎は嘉永五(1852)年、仙台藩士の上に生まれ、戊辰戦争にも出た。
 維新後上京して各種学問・宗教(キリスト教)を学び、明治10(1877)年ごろから秋川界隈で小学校教員に就く。
 明治13(1880)年に五日市を訪れて、ここ観能学校に勤め始めた。

 ほぼ同じころ、五日市学芸講談会を作って、同年代の若い人々と社会・政治についての学習会を始めた。このころまだ30歳にならない。
 タクロン・チーバーと自称した。
 翌1881年に五日市憲法を起草。

 1883年に結核のため没。

 お金もない。
 名声もない。
 彼女もいない(かどうか実は不明)。
 何も残さずに死んでいったかに見えた卓三郎が残した私擬憲法が偶然発見されたのは、昭和43(1968)年だった。

第45条 日本国民は各自の自由権利を達すべし。他より妨害すべからず。かつ、国法これを保護すべし。

 人は各自自由であり、権利の主体である。それを何ものも妨害してはならない。かつ法律はそれら(の権利及び自由)を保護しなければならない。
 これこそ、日本人民が到達した思想的金字塔というべき文言だろう。

スナップエンドウ

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スナップエンドウ煮物


 終日、農作業。

 まずはボヤを玉切って焚き付け作り。
 これがないと火をつけることができない。

 畑に行って、いんげん豆のヤグラ建て。
 面倒な仕事が一つ、片づいた。

 オクラ苗にミニ支柱立て。

 ブロッコリーの網掛けメンテ。

 落花生の芽が出揃ったので、網外し。
 去年はこれでほとんど苗を食われたんだが、野ネズミのしわざではないかと疑われるので、今年は毒餌をおいた。

 じゃがいもの土寄せ。途中まで。

 スナップエンドウができ始まった。
 まだ残っているタケノコと一緒に煮た。

馬頭尊

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親鼻渡しの馬頭尊


 終日、秩父事件の史跡見学。
 皆野町をずっと歩いていた。
 歩くと必ず、何かの発見がある。
 今日もそうだった。

 早朝と日没前に急いで農作業。
 大麦の食害対策を応急的に。

 写真は、旧秩父往還・親鼻の渡し場の馬頭尊。
 宝暦12年の銘あり。

金剛の滝

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金剛の滝


 朝から集落のお日待ち。
 少し休んで、午後は集落の稲荷様の石段づくりの手伝い。

 夕方、畑に行って大麦の防鳥糸張り準備の続き。
 そろそろ食われ始めているので、早く糸を張らなければならないのだが、いろいろあって作業が進まない。

 写真は、今熊神社登山道の途中にあった金剛の滝。
 水量が乏しいため釜はショボいが、高さは15メートルほどあって、久々に美瀑を見た。

広徳寺

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広徳寺


 山歩きと街歩きを兼ねて、五日市へ。
 連休中とは言え休日でないので、人出は少なく、いい日和だった。
 朝の広徳寺はとても爽やかだった。

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妹ヶ谷不動縁日


 朝から大麦の防鳥糸張りの準備をしていたら雨が降ってきたので、畑仕事はお昼まで。

 三波川の妹ヶ谷不動の縁日(「復活祭」と称されるイベント)。
 ここにお参りに来たのは三度目だが、人影を見たのは今度が初めてだ。

 始まるころには参拝客もまずまず集まってきた。
 お参りしたのち、受付で学業成就を祈念した護摩木を奉納した。
 お坊さん数名による法要開始後しばしで失礼したが、その後も、神楽・ロックバンドの演奏・怪談・ひょっとこ隊の演舞などが行われた模様。

 寺院なのだから法要がメインなのだろうが、それだけではお客さんは来ない。
 江戸や明治の時代であれば、花火や地芝居が付け祭りだった。
 しかし、寺社の祭礼における付け祭りがどのようなものであるべきかに、決まった答えがあるわけではない。

 大事なのは、境内が賑わうことなのである。

 秩父では、宗教に関連する行事に無縁では暮らせない。
 しかし、夜祭のように超メジャーなお祭りは別として、地域で無数に行われている祭事は、担い手不足を主たる原因として、かなり危機的だ。
 山村の民として、妹ヶ谷不動の健闘を祈りたい。

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