越生町の大築城址へ。
ここは、松山城主の上田朝直が慈光寺を焼き討ちするために築いたと『新編武蔵風土記稿』にあるらしく、現地説明・書籍・ネット上すべての説明がその通り説明している。
しかし、
・なぜ慈光寺が焼かれねばならなかったのか。
・慈光寺と大築城はけっこう離れているのだが、焼き討ちすると決まってるならもっと現場に近いほうがいいのではないか。
・焼き討ちするための拠点なら、何段もの立派な曲輪や空堀を構える必要はなかったのではないか。
等々に関する説明はどこにもない。
そもそも『新編武蔵風土記稿』は、大築城が廃されてから二百数十年後に編纂されたものであり、おそらくは地元民からの聞き取りによって慈光寺焼討説を記録したものだろう。
城は仮設の砦というようなものではなく、何段もの立派な曲輪を巡らせ、かなり堅固に築造されていた。
写真は、登山口にある住吉神社。
築城に関わり、土着した人々が建立したと口伝されているようだ。
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