稲穂山古墳

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稲穂山古墳


 稲穂山古墳でコナラの間伐を手伝ったのは6年前だった。

 その時のエントリで「秩父地方の古墳は群集墳として築かれたものだというのが一般的な理解だから、稲穂山古墳は、一般的な秩父の古墳とは性格が異なると思われる」「秩父地方の群集墳の多くは、墳丘の下部に緑泥片岩で横穴式石室を構えているのだが、稲穂山古墳は墳丘の頂部に竪穴式の石室らしきものがある」と書いたのだが、その後、稲穂山古墳に関する研究に接する機会がなかった。

 ムクゲ公園で稲穂山古墳に関する講演会があると聞いたので、でかけてきた。
 講演は、宮瀧交二氏の「和銅遺跡と埼玉の渡来文化」と大谷徹氏の「稲穂山古墳の謎を探る」で、いずれも興味深いものだった。

 大谷氏が紹介された現在の研究によると、立地や石室の形態など、稲穂山の形態が秩父地方の他の古墳と異なっているのは、築造された年代が異なっているからで、5世紀半ばから6世紀前半に築造されたというのが現在の説らしい。

 稲穂山古墳の眼下には、飯塚・招木古墳群、大塚古墳(群)、上長瀞・金崎古墳群など、7世紀後半以降に築造された群集墳があるのだが、定説に従えば、稲穂山古墳の築造当時にこれらの群集墳は存在せず、いわば秩父地方で唯一の古墳だったことになる。
 しかも時代的には、北武蔵の王者の墓だった埼玉古墳群とほぼ重なることにもなる。

 埼玉古墳群は、平野に盛土して築かれた大型の前方後円墳であり、竪穴式石室を持ち、稲穂山とは規模も形も全く異なる。
 武蔵国造に比定されるだけあって、被葬者の権力の巨大さは、十分理解できる。
 稲穂山と埼玉古墳群が同時代だったとすれば、その規模からして、秩父の有力者は埼玉古墳群の被葬者たちに従属的な立場にあったと考えざるを得ない。

 古墳の築造時期をその形態から推定する方法が、すべてのケースにおいて妥当かどうかはわからないから、稲穂山が5世紀半ばから6世紀前半に築造されたという説の説得性は十分だと思えない。
 稲穂山と秩父の他の古墳との形態的相違を、築造時期の相違から説明するのでなく、被葬者の階層の相違という形で説明する視角はありえないだろうか。

 稲穂山古墳は、荒川の河岸段丘上に築かれた群集墳と、その周囲に展開していたであろう集落を見下ろす位置にある。
 決して楽ではなかっただろうが、古代の秩父の民の暮らしは、とりあえず平穏に営まれていただろう。
 秩父盆地という小天地の支配者は、民の暮らしの風景を眺めて満足していただろう。

 かの小天地の支配者が葬られるのに、稲穂山がもっともふさわしい場所だったと考えるのが、ストーリーとしてはロマンティックなのだが。

 この古墳の築造時期を明確に示す何らかの発見がなされることを期待したい。

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