黒沢正則『広域蜂起 秩父事件』

 前著と同じく、秩父事件は革命をめざした自由党員による武装蜂起であり、田代栄助ら最高幹部は逃亡したのではないと主張している。

 上の読書ノートに対し、秩父事件研究顕彰協議会の会報上で、著者から反論をいただいた。

 前著に対し私は、田代栄助が入党申込書を書いて以降、党員とし活動したことを証明するのは簡単でないと述べ、「状況証拠による著者なりの推定が、あたかも証明された史実であるかのように書かれている箇所が散見される」と批判したのだが、著者は、状況証拠だけでも史実は証明できると主張される。

 再度一例をあげる。

 田代栄助が明治17年の春から夏にかけての時期に自由党員として活動したことを証明する史料は、一つもない。
 著者は、『自由党史』の群馬事件のくだりに栄助が登場することを状況証拠として挙げられているのだが、『自由党史』は自由党を顕彰することを意図して編集された史書であって史料ではない。
 「秩父の党友・田代栄助」の表現は、『自由党史』の種本である『東陲民権史』に登場するのだが、『東陲民権史』は、加波山事件参加者による事件史として貴重な文献ではあるものの、群馬事件については、「檄に応じて我も我もと群衆せる人民、数を知らず」とか「総勢三千人」が「天地も割れんばかりの鯨声を合図に」岡部家を打ち壊したなど、不正確かつ針小棒大な記述が散見される。

 明治17年1月ごろに小柏常次郎と栄助が困民救助について話し合ったことがあると加藤織平が述べていると著者は言われるが、織平が述べているのは、

(1) 常次郎が柔術教授のために織平宅をを訪れたのは明治17年1月ごろである
(2) 田代栄助に常次郎を引き合わせたのは自分ではない

ということだけである。
 著者はここから「明治17年1月ごろに小柏常次郎と栄助が困民救助について話し合った」という「事実」を作り出し、それを根拠として、栄助が自由党員として活動しなかったということが「証明」されたと言われるのだが、「事実」を証するものが何もないのだから、何も証明などされておらず、著者の描かれる歴史が事実であると主張するには無理がある。

 栄助の言によれば、彼が常次郎と知り合ったのは明治17年9月6日(常次郎は9月13日と供述)、阿熊村新井駒吉宅における集まりにおいてであり、その点については、常次郎の証言とも一致する。
 獄中において口裏合わせをするのは不可能だから、幹部の中でもっとも饒舌に事件の経緯を語る二人の供述の一致は、意図したものでない可能性が高い。

 秩父事件が自由党員の指導のもとで、広域的な蜂起をめざしたものであることについては、それを証する史料も多々あり、もとより同意できる。
 だからといって、「群馬県から埼玉県の北部にかけてははっきりと秩父と連絡しての蜂起計画の実在が証明できる」あるいは「本陣を離れた幹部たちが各方面に散ってこれら方面の組織と連絡を取って蜂起する。秩父郡のほぼ全域を制圧した段階で各地に連絡員を派遣したり、あるいは各地から参加していた自由党の人々が地元に戻って蜂起に向けた活動を行うのは当然のことである」ということが、史実として確認できるわけではない。

 この過程を跡づけるには、

(1) 一般民衆とともに広域蜂起をめざす路線が、自由党の中のどのような人々によって主張され、具体化されていたか
(2) 広域蜂起をめざす大衆的な行動綱領がどのような形で転形され、民衆が組織されていったのか

を、史料に基づき論証・分析する必要がある。

 (1)について江村栄一氏は『自由民権革命の研究』(1884年)で、明治17年当時の自由党には言論活動による改革をめざす「平和革命派」、武装蜂起をめざす「広域蜂起派」、顕官暗殺を機に革命をめざす「決死派」の各路線が生起・共存していたという展望を示された。
 ほぼ同じころ刊行された三浦進・塚田昌宏『加波山事件研究』は、加波山事件関係史料を分析する中で、加波山事件はテロを目的としたのでなく、加波山?東京の同時蜂起を意図していたという見通しを示された。加波山で蜂起した人々は檄文において、専制政府打倒を大衆に呼びかけた。
 これらの研究により、自由党の少なくとも一部に、大衆的な武力蜂起によって政府打倒をめざすグループが存在したことは、明らかになっている。

 では、(2)についてはどうだったか。
 加波山の檄文には、「収斂時なく餓ふ(草かんむりに孚)道に横はるもを之を検するを知らず」とあるが、民衆生活の何が現下の問題なのかについては、何も語っていない。
 行動綱領が不明で組織活動も存在しなかったのだから、この檄に呼応して立ち上がった民衆が一人もいなかったのは当然である。

 当時の自由党蜂起派が大衆組織のための行動綱領として提起していたのは、減租だった。
 減租運動が自由党中央と地方においてどのように展開されたかについては、高島千代「減租請願運動と自由党・激化事件」(高島千代・田?公司『自由民権「激化」の時代』所収)が詳細に分析している。
 上毛自由党が大衆的に展開しようとしていたのは減租運動であって、負債問題ではなかった。

 上毛自由党と人的つながりの強かった秩父自由党だが、幹事格だった村上泰治は事件当時、獄中にあった。党員だった加藤団蔵は、全国の自由党員で百分の二の地租減額を強願する運動に自分は参加するつもりだったのであり、泰治はこのような(負債問題のような)些細なことには加わらない、と述べている。
 多摩の自由党が武相困民党と関係しなかったのも、同様の論理だろう。

 村上泰治が秩父事件には加わらなかっただろうという、団蔵の見通しが正鵠を得ていたかどうかはわからないが、泰治が捕縛されたあと秩父自由党の幹事格を継いだ井上伝蔵は、秩父の民にとって最も焦眉の課題だった負債問題に真正面から取り組んだ。

 負債問題という最も切実な生活問題に取り組んで、数え切れないほどの山林集会・高利貸との集団交渉・郡役所や警察との交渉などを積み重ね、まとめ上げられたのが、四項目の要求(困民党の行動綱領)だった。
 ここには、富農や高利貸以外の誰もが願う、経済要求があげられている。
 秩父民衆の誰もが参加可能な行動綱領でありながら、実際には県庁や内務省への要求であり、その実現には政治の根本的な転換が必要だということが、含意されている。
 秩父事件が数千人もの民衆を動員できたのは、生活防衛と革命を説得力を持って結びつけることができたからにほかならない。
 秩父事件が広域蜂起を実現できたのは、秩父自由党が、負債問題と国政改革とを結びつけ、人々を組織できる論理(四項目要求)を研ぎ澄ましたからだった。

 明らかにすべき課題は、あちらでもこちらでも武装蜂起の動きがあった、だから秩父事件は広域蜂起なのだと指摘することではない。
 武装蜂起が始まった時点で、秩父の大衆と佐久・西上州の自由党員間の意識が完全に統一されていたとは限らない。

 革命的な状況下で、思想は変容し、先鋭化する。
 井出為吉が嘘を言ってないと断言できる根拠は持ち合わせていないが、織平宅で数人の幹部と対面したた時には「借金党なら帰る」と言っていた為吉と貫平が、数千人の民衆が武器を持って反政府の武力闘争に立ち上がった状況を前にして、認識を新たにし、困民党軍指導部に加わったと考えたほうが、よほど無理がない。

 上・下日野村など、西上州からの参加者は、自由党の式をあげるというので参加したなどと述べている人が多い。
 これは、群馬事件・照山事件によるダメージを免れた小柏常次郎ら上毛自由党のネットワークが健在だったことを示している一方、彼らが秩父事件に加わった動機が自由党員としての自覚だけだったかどうか、西長岡村のケースを含めて、個別の分析が待たれる。

 著者の主張は、著者が考える秩父事件像に沿って参加者の裁判記録のここは嘘、ここは真実と決めつける、主観的秩父事件論だと思う。
 秩父事件ほど多くの史料が残っていても、史料そのものに限界があり、行間紙背を読む必要があるのは、当然だ。
 とはいえ、史料の主観的な読み込みは、歴史的妄想につながる恐れがあり、危うい。

 秩父事件も自由民権運動なのだと考える視点を、私も著者と共有している。
 だからこそ、「明確だ」「証明された」「間違いない」と単に強弁するだけでなく、残された史料が示す事実に対し、謙虚に向かい合う必要があろう。

(ISBN978-4-89623-193-9 C0021 \1600E 2022,12 まつやま書房 2023,12,6 読了)

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