岩竹美加子『フィンランドの教育はなぜ世界一なのか』

 息子さんをフィンランドと日本の学校に入れた母親による、両国の教育事情。

 フィンランドは、いわゆる幸福度ランキングでも2018年以来首位であり続けているのだが、PISAの2022年教育総合ランキングでも首位である。
 ちなみに日本の幸福度ランキングは54位で先進国最低、2022年教育総合ランキングは14位である。

 フィンランドの教育は、人格形成それ自体を目的として行われているように見える。
 日本の教育も「人格の完成」をめざすと称しているが、それはカリキュラムに具体化されておらず、現場では意識されてもいないことが多い。

 日本の教育基本法に「人格の完成」という文言が入っているのは、占領期に制定された法律だからだろう。
 基本法の根幹たる(教育の目的)にこのような格調高い規定があっても、戦後の行政も政治も、法の精神を具現化するどころか、旧態然たる「富国強兵」「和魂洋才」に、人格形成を従属させてきたのだった。

 個人が国家に従属するのか、個人(その人がその人自身であること)の尊厳を至高の価値とするか。
 これは、イデオロギーの問題ではなく、近代によってもたらされた最高の理念をどれだけ自分のものにできているかという問題だ。
 黎明期における日本の社会主義運動をみても、戦後の民主主義運動を見ても、至高の価値は個人にではなく、組織にあった。

 組織より個人の尊厳を上に置くことは、能率的でないという反論が予想される。
 教えられたことをより多く記憶できるのが「優れている」という偏見に立てば、より効率よく知識を詰め込んだ方がよい。

 ところが人間の本質を突き詰めて考えれば(それが教育学というものなんだが)、記憶力もゲーム力も、いずれも人間の能力の、数ある一つにしか過ぎない。
 駈けっこが速かったり、腕力が強かったりすれば特異な能力として評価されるが、無価値とされる能力において優れた人は、いたるところにおり、すべての人が優れた人だと言っても過言ではない。

 いかにセコく金を儲けるか、というのも近代の一側面だった。
 遅れて近代化に取り組んだ日本の教育は、教育の本質について考えることを放棄し、福沢以来、教育を儲けるための手段と位置づけた。

 それがフィンランドと日本の学力差にあらわれているのだが、日本の教育行政・学校は、そのことに気づいてもいない。

(ISBN978-4-10-610817-4 C0237 \780E 2019,6 新潮新書 2023,7,31 読了)

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