黒田基樹『百姓から見た戦国大名』

 戦国時代がどのような時代で、百姓たちがどのように生き、戦国大名や国衆がどのように対応したかを解明している。

 民衆闘争史研究が盛んなりし頃の戦国時代像は基本的に、国一揆や一向一揆にみられるような民衆闘争に光をあて、苦しい時代にあっても闘うことをやめない民衆と悪逆無道な織田信長(に代表される戦国大名)という二元論により組み立てられていたように思う。(これは自分の受け止めであって実際にはもっと精緻な議論がされていたはずだ)

 その後、戦国時代研究は画期的な進捗を見たらしく、私ども一般に理解しやすい著作も数多く出された。

 その中で理解できたことの一つは、民衆にとって戦国時代とは、飢えと恐怖の時代だったということである。
 領主(この時代は在地の土豪か)からの収奪はあったにせよ、この時代は、生産力そのものが貧弱で、諸稼ぎによる収入もさほど多くなかったのか。

 だから、収奪が過分だと思われたとき、民衆は逃散した。
 江戸時代になっても逃散は法度だったが、人別帳が完備していない戦国時代には、容易に逃げることができ、逃亡先の領主は逃げた百姓を受け入れた。
 百姓は、生きるために逃げたのだった。

 公権力は存在しなかったから、村は薪炭林や採草地・水利をめぐって、他の村と武力で争った。
 階級闘争の論理だけで、この点を説明しきることはできない。

 戦争もまた村にとって、大きな災難だった。
 戦国大名たちは、遠征に際して、家臣や足軽による略奪・放火・住民拉致を認めた。
 それらは、従軍することに対する報償という意味を持っていたから、合戦に略奪・放火・拉致は付き物だった。
 どの戦国大名にも、略奪行為は多かれ少なかれ存在していだろうが、上杉謙信や武田信玄には、特に顕著だったように思う。

 このように恐怖すべき時代にあって、より強力な権力の出現は、民衆にとって歓迎すべき事態だった。
 戦国大名であれ国衆であれ、自領の民衆を守るべきは当然であったからだ。

 戦国大名の側も、この時代には恣意的な収奪などありえず、目安の設置など、公権力にふさわしい支配のあり方が模索された。
 豊臣秀吉の惣無事令は、列島の民衆にとっても、重要な到達点だった。

(ISBN4-480-06313-7 C0221 \700E 2006,9 ちくま新書 2023,4,12 読了)

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