黒田基樹編『長尾景春』

 長尾景春の乱に関する論文を一冊に編んだ本。

 秩父地方の戦国時代の幕を開けたのは、長尾景春だった。

 室町時代の関東を支配したのは鎌倉府だった。
 鎌倉府は、権力機構としては幕府の下に位置づけられたが、幕府権力はそもそも脆弱だったため、実質的には関東の地域政権と言えた。
 形としては、最上位に鎌倉公方(足利氏)が位置し、関東管領の上杉氏がそれを補佐した。
 しかし、将軍と鎌倉公方、鎌倉公方と関東管領はおおむね折り合いが悪く、幕府成立当初から戦乱が頻発した。

 関東が全面的な戦乱状態に陥ったのは、享徳の乱(1455-1483)以降だった。
 ここから関東は、足利氏・上杉氏を中心として、その陪臣や地域の実力者が離合集散を繰り返し、いつ果てるともない戦乱期に入った。

 享徳の乱が収束に至る前、1476年に北武蔵で挙兵した長尾景春は、太田道灌に追われて秩父地方で立てこもって抵抗したが敗北した。
 河越夜戦(1546)以降、北条氏が武蔵を制覇して戦国時代が到来するのだが、長尾景春をめぐる史料に室町末期の秩父在地のようすが散見する。

 本書には、景春に関する史料や日野城・塩沢城に関するデータが網羅されており、この時期の秩父を知る必読文献である。

 15世紀(室町時代中期)の秩父地方を領有していた武士として本書は、安保氏・犬懸長尾氏をあげている。
 彼らは、武蔵七党以来小領地を支配してきた地侍を傘下に入れ、貢納を収受する何らかの権利を有し、有事に際しては戦力として彼らを動員したのだろう。

 秩父在地は、丹党・児玉党に属し、小天地の主だった地侍たちが舘を中心に割拠していたはずだが、彼らの実態に関する史料はなさそうだ。
 鎌倉時代には丹党中村氏が頭目的な位置にいたと思われるが、南北朝期以降は、小雄割拠状態だったのだろう。

 道灌に鉢形城を追われた景春が日野城にこもったのは、安保氏・犬懸長尾氏のつながりを求めたからだろう。
 日野城(熊倉城)は、ある程度の広さを持つ山城で、これを守るには、かなりの人数を必要としたと思われる。
 本書が指摘するように、被官・傍輩などと呼ばれた大名の卵たちや在地の地侍は、日和見を本質としていたから、勝利の見通しは明るくなかったとはいえ景春は、塩沢城に拠って戦い続けた。

 塩沢城をも追われた景春が退転したのち、秩父の地侍たちは、最終的に北条氏の家臣団に組み込まれる。
 鉢形落城後、帰農した彼らは草分け百姓として村落リーダーとなる。

 具体詳細な史料には乏しいが、秩父の室町・戦国期がかなりクリアに理解できた。

(ISBN978-4-86403-005-2 C0021 \6000E 2010,1 戎光祥出版 2021,9,14 読了)

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