高橋敏『博徒の幕末維新』

 竹居安五郎の人生をたどりながら、甲州・武州・下総などの博徒の幕末史を描いている。

 幕末の甲州では、安五郎・黒駒の勝蔵などに代表される、プロの博徒集団が跋扈していた。

 同じ著者の『清水次郎長』で指摘されているように、物資の集散地で、したがって人の移動もまた激しく、かつ所領が複雑に入り組んで統一的な支配が行われにくい場所に、博徒集団が生まれやすい。

 安五郎父の甚兵衛は文政6(1823)年に郡中取締に任ぜられている。
 関東で組合村が設定されたのは文政10(1827)年だから、ほぼ同時期である。
 この時期に、甲州・関東で、地域における治安対策が課題となったのである。

 郡中取締の甚兵衛の息子甚兵衛とその弟安五郎が、取締のターゲットである博徒集団の頭目になった理由はわからない。
 黒駒の勝蔵も名主の息子だったし、秩父困民党の総理・田代栄助もまた、忍藩大宮郷の割役名主の家柄だった。

 秩父困民党の総理・田代栄助が「子分と称するもの200人」と述べている。
 栄助が安五郎や清水次郎長のような博徒集団の頭目であったなら、子分たちを秩父事件に動員することは可能だっただろうが、秩父事件参加者の中に柴岡熊吉(彼とて栄助の「子分」だったという確証はない)以外に子分らしき人物は、見当たらない。

 本書は、嘉永2(1849)年に武州から東海地方にかけて跳梁した、秩父の田中村岩五郎・石原村幸次郎なる博徒の横行を紹介している。
 秩父に田中という村はないので、これは榛沢郡の田中村だろう。
 とすれば、田中村と石原村はごく近くなので、彼らは熊谷駅周辺に成立した博徒集団で、秩父地方にも出入りしていたのだと思われる。
 秩父地方にこれら博徒集団の支部のようなものが存在した可能性は十分あると思われるが、史料には出てこないから、さほどの組織でなかったか、権力から見逃されていたか、どちらかだろう。

 戊辰戦争期に、博徒集団が官軍に軍事力として組み込まれた時期があった。
 武州一揆の際に組織された自警団も、臨時の武力機構だった。
 これらの実態解明も進んでいない。

(ISBN4-480-06154-1 C0221 \740E 2004.2 ちくま新書 2021,9,12 読了)

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