三浦進・塚田昌宏『加波山事件』

 主として刊本になっている史料を徹底的に読み込むことにより、加波山事件が単発的な暴発ではなく、自由党による、より大きな規模の武装蜂起の一環だったと述べた書。
 同じ著者の『明治の革命(新版)』の前提となっている労作である。

 加波山事件を起こしたのは、栃木・茨城・福島各県の自由党員たちだった。
 彼らの中に、顕官暗殺により世情を混乱させ革命を惹起させようと目論む人々と、自由党員による武装蜂起により革命に至ろうとする人々が混在していたが、結果的に宇都宮での県庁開設式典が延期となったことなどのため武装蜂起に追い込まれたとする理解が、かつては一般的だった。

 本書は、史料の緻密な分析により、上記は事件の本質を見ない表面的な理解であるとして、内藤魯一を中心とする自由党幹部の中で、関東各地における武装蜂起が模索されており、加波山グループはいわば先鋒隊として宇都宮でことを起こし、本隊は東京で蜂起して一気に首都を奪取するという計画が存在したという仮説を提示している。

 東京における革命は、関東各地の自由党組織の戦いと連携したから、計画が実現すれば関東一円における「連帯蜂起」が結果したという展望が示される。

 この展望は、明治17年3月の自由党春季大会に参加した高岸善吉が聞いてきた話とも、事件のさなかに秩父から浦和・東京へ攻めのぼるとした困民党幹部の発言ともほぼ一致するから、あながち根拠のないものとも言えない。
 先鋒隊が地方で起ち、本隊が東京で起つという計画が実際に存在したのであれば、史料的裏付けは困難だが、「連帯蜂起」論も十分にありえただろう。

 考えなければならない点がある。

 仮に「連帯蜂起」が実現したところで、はたして革命が実現したかどうか。
 明治維新を実現した背景には広範な民衆による世直し的な状況があったのだが、当時の壮士にすれば、維新は「勤王の志士」の命がけの奮闘によって実現したという程度の認識だったのではないか。

 彼らは、民衆の生活レベルに視点を据えた政治という考え方に乏しい。
 秩父困民党は民衆の生活レベルの要求を集約した上で、警察・軍隊との闘いに民衆を組織した。
 彼ら自由党員たちにとって、革命の主力部隊はやはり、民権運動の壮士たちなのであって、民衆はせいぜいそのための手駒に過ぎなかったと思われる。

 新史料が発掘される可能性はあまり期待できないと思われるが、秩父困民党が実現し、武相困民党に実現できなかったことは何で、その背景は何だったのか、自由党武装蜂起派に欠落していたものは何だったのか、論理構築の必要性を感じる。

 以上のような問題を残すとはいえ、加波山事件の闘いが無意味だったとは思わない。

 自由民権運動の時代は、まともな言論戦さえままならない圧政そのものの時代だった。
 そのような中で、非合法運動に必然性や正当性がもたらされるのは、当然のことではなかろうか。

 自由民権運動の本流は合法運動だったという言説は、民権運動研究の魅力を損なう偏見だと考える。

(1984,5 同時代社 2021,6,14 読了)

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