藤木久志『土一揆と城の戦国を行く』

 戦国時代の在地の様相に関する論集。
 とても興味深い事例が多数紹介されている。

 土一揆が頻発したのは畿内周辺においてだったはずである。
 室町時代の在地は、武将同士だけでなく、民衆の世界にあっても、暴力が支配する世界だった。

 土一揆は必ずしも秩序だった民衆運動ではなく、飢餓に直面した民衆のアナーキーな暴力行為だったし、武将勢力の前線で戦う足軽たちは、そのような民衆と何ら異なることのない欲望の塊だった。
 戦闘は軍同士で行われるが、舞台となる村はいずれかの領地なのであり、略奪・拉致・農作物蹂躙を必ず伴ったのであり、いくさは難民を生みだした。
 民衆にとっての室町末から戦国時代は、教科書では惣が形成され、民衆自治の萌芽が形成された面が強調されるが、実際には飢饉と戦争から自ら防衛しなければならない、酷薄な時代だった。

 その時代に、北条氏の領国では、飢饉と戦乱による退転が頻発し、北条氏康・氏政は、民衆に対する各種宥免策に追われていた。
 上州三波川における退転の例が紹介されているから、秩父においても、戦乱が訪れれは同様の事態が起きていた可能性はある。

 秩父における大きな戦乱は、1478年から1480年にかけて長尾景春が逃げ込んできたときと、1569年前後に武田信玄軍が侵攻してきたときだが、記録に残っていない小さな争乱はもっとあったと思われる。
 戦乱に巻き込まれた頻度は、畿内ほど多くはないにせよ、天候不順による不熟は他の地方と同様だっただろうから、退転に至るような事態が起きなかったとは言えない。

 本書は、山城が小領主にとって、戦闘の際の砦・物見の役割を果たしていただけでなく、地域民衆が敵軍による略奪・暴力から逃れるための避難所の役割をも果たしていたと述べている。
 これも自分にとっては新知見だった。
 秩父地方に数多く残る山岳城址が、地域住民にとって生命線の一つだった事実は、もっと知られてよいのではなかろうか。

(ISBN4-02-259908-1 C0321 \1300E 2006,10 朝日新聞社 2021,6,9 読了)

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