中島博昭『鋤鍬の民権』

 松沢求策の伝記。再読。

 松沢求策は、在地の民権運動家である。
 中農出身。維新後、村や地域の役職者として、地域活動に従事していた。

 ここには、住民代表としての純然たる地域活動だけでなく、行政機構の末端を担う活動も含まれる。
 その点、秩父困民党の活動家の一部と重なる部分が見られる。

 維新後の新政は、そのほぼ全ての負担を住民に転嫁した。
 地租改正といい、学校の設置といい、各種道路工事といい、役場建設といい、国家が命令し、その費用は住民が負担するという形で進められたため、実務や経費徴収を担当する人々は、国家意志と住民の板挟みになった。

 地域住民にとって、国家は、アプリオリな存在でなく、維新後に初めて眼前にあらわれた存在だった。
 秩父でも、国家と住民の間の矛盾を一身に受ける立場にあった人々が天賦人権思想にふれたとき、思想の深まりが生じたのではないかと思っている。

 松沢求策は地域活動に従事しつつ、新たな知識を激しく求めた。
 このような傾向も、明治初年の在地各地に普遍的にみられ、求策のような青年は普遍的に存在した。
 各種学びや勧農、産業、政治などに関する結社が作られるのも、安曇野に限らず見られた、一般的な流れだった。

 松沢求策は国会開設請願運動に従事するようになると、地域活動から離れていく。
 民権運動家としてこれは一般的だったかもしれないし、大きな運動にとって、専従活動家は必要な存在でもある。
 しかし、国会開設請願運動という全国的政治課題と地域の政治的・経済的課題とが雁行するとき、全国的な運動の指導部の根が浮く。

 国会開設請願運動における活躍と裏腹に、地元信州における求策への評価が厳しくなっていったのは、理解できる。
 これは、自由民権運動の一つの弱点だった。

(1974,1 銀河書房 2021,6,8 読了)

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