古厩忠夫『裏日本』

 日本とはどういう社会なのかを考える切り口はあまたありますが、最も本質的なポイントはそう多くないと思われます。


 かつて色川大吉氏は「底辺の視座」から日本の近代をとらえ返すことを提唱されました。
 それは民衆史掘り起こし運動との相乗作用によって、それまでの近代史像を大幅に変容させ、史的唯物論が拾い上げきれなかった弱者・生活者の視座から、日本の近代を告発したのでした。

 本書のサブタイトルも、「近代日本を問い直す」となっています。

 市場経済とは要するに、コストをめぐる競争経済です。
 そこには必ず勝者と敗者が生み出されます。

 勝者たるに必要なのは必ずしも、努力や才覚とは限りません。 むしろ、権力や国家といかにうまく癒着できるかといった本来の意味とは異なる才覚がものをいう場合の方が多いようです。

 本源的蓄積を図る上で農村が一貫して犠牲にされたように、北陸・東北と山陰を犠牲にしつつ、日本の資本主義化が遂行されたということを、本書は実証しています。

 近代日本は、「裏日本」から税と資源と食糧と人間を収奪する一方で、それらを「表日本」へと傾斜的に注入する中で形成されてきました。
 勝敗はあらかじめ決まっていたのであり、「表」が勝者になるのは、当然でした。

 敗者を生み出すことなしには発達しないというのが資本主義の特徴です。
 帝国主義の時代には、宗主国が植民地からサクシュすることによって富を集め、経済発展を遂げるという構造がありました。
 日本は後発帝国主義国としてのハンディを、植民地・半植民地を犠牲にするのみならず、農民・労働者・国内植民地ともいうべき沖縄と北海道、そして「裏日本」を踏み台にする中で克服してきたといえるでしょう。

 このように犠牲多き近代化に正当性はあるか否か。
 日本人の多くは、現在のところ、明治以降の近代化によって現今の華やかな消費経済をもたらされたという点において、これを肯定しています。

 「勝ち組」はほんの一握りで、大多数は確実に「負け組」に属するだけでなく、権力によって勝敗があらかじめ決められているのでは、競争経済であるともいえません。
 そんな出来レースまがいの市場経済が、日本の資本主義だったのです。

 本書には田中角栄的な精神風土とは何かということについて、論及されています。
 それは、都市と比べて後進的な新潟農村の精神風土などというものではありません。
 すくなくとも、日本列島改造構想で田中角栄氏がよりどころにした理念自体は、先駆的なものだったと思います。
 彼が、1972年の時点で情報通信ネットワークの形成を通じた都市と農村の格差の解消を説いている点などは驚異に値します。

 彼を単なる土建屋政治家だと考えるべきではないし、そういうとらえ方では、近代化の過程で一貫して敗者たる運命を甘受してきた「裏日本」に共感することはできないでしょう。
 とはいえ列島改造計画は、現実には都市の矛盾を地方に拡散したり計画倒れに終わって、地方のいっそうの荒廃を招く結果となりました。

 「裏日本」は今なお、補助金と引き換えに、原発・核廃棄物・都市ごみ処分場などを引き受けさせられつつあります。
 そのような構造を変えていかない限り、「裏日本」は永遠にかつ、より深刻に「裏日本」化していかざるを得ないでしょう。

 新潟県巻町が原発を拒否したのは、その意味でも画期的なことだったと思います。

(ISBN4-00-430522-5 C0221 \700E 1997,9刊 岩波新書 2005,8,18 読了)

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