明治17(1884)年9月30日のの夜に、群馬県神流川沿いの村々で、何者かの手によって、「借金のあるものは10月1日に野栗峠へ出よ。さもなくば焼き払う」などと記した「火札」が一斉に貼られた。
いうまでもなく、10月31日に武装蜂起する秩父困民党と連動した動きだった。
10月1日の野栗峠の集会にどれほどの人々が集まり、どんなことが話し合われ、何が決まったのかは、わかっていない。
また、秩父から誰かがオルグに訪れたかどうかも不明である。
同年5月に起きた群馬事件以降、上毛自由党がどのような組織活動を行なっていたかは、あまり明らかになっていないのだが、野栗峠における山林集会はおそらく、秩父におけるそれと同じく、いずれ武装蜂起に至る困民党の中核集団を形成する意味を持っていたのだろうと思われる。
ではなぜ、現在の中里村・上野村を包含する広大な民衆に呼びかけられた大衆集会の会場が、野栗峠なのか。
歩いてみることによって、何かがわかるかもしれないと思い、今日は、野栗-野栗峠-明家-オバンドウ峠-間物と歩いてきた。
上二つの写真は、野栗峠より手前にあった道標を兼ねた石仏と石塔である。
いずれもやや不鮮明ながら、「右 ちちぶ道 左 やまミち」と彫られている。
野栗峠は、秩父に至る峠だったのだということがわかる。
下は、野栗峠に立つ馬頭尊である。
優しげな表情の石仏である。
この馬頭尊の眼は、明治17年10月1日に、この前で起きた光景を見たはずである。
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