秩父山地の歴史と文化

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 荒川水系渓流保存会の飼育池に出かけたが、雨も強く、作業は何もせずに帰宅。
 大雨のため農作業もなし。
 たまには身体休めもよいかも。

 通りすがったミューズパークにでっかいヤマドリタケモドキが出ていた。
 そろそろ、そういう季節になったのかも。

 『森の語り部』の読書ノートを追加。

 ホームページのプロフィールコーナーに高校生向けの解説、秩父山地の歴史と文化を追加。

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コメント(5)

「これぞ熊野というような、重厚な森を逍遥」してみたいものです。8月に対馬にある国指定天然記念物の原生林を探検します。教えていただいた鎌田慧著「日本列島を往く(1)国境の島々」(岩波現代文庫)によると、かつて、対馬の佐須川・小茂田には第二のイタイイタイ病が発生したそうですね。知りませんでした。日本の辺境・国境の村には、「企業城下町」がたとえば水俣病の水俣のように企業が地域を支えていたという「自負」があったのですね。時代は、10年・20年でめまぐるしく変転します。今、対馬は、韓国の観光客で賑わうとか・・
網野喜彦の本を少し読み始めていますが、対馬が韓国や中国と交流するのは、今に始まったことではありません。東京とか江戸とか京都中心の歴史物語からの脱却も考えていいのかもしれませんね。

網野氏の歴史や鎌田氏のルポルタージュを読んでいると、日本という国についての見直しを迫られます。国境というものが、小賢しい為政者によって観念的に引かれた、じつは存在さえしないラインなのだということもわかってきます。
 「秩父山地の歴史と文化」を書いていて、山の民もまた、国家とはつかず離れずの関係を保ちながら生きていたのだと思いあたりました。
 山の民の想念を解くカギが熊野にもあるのではないかと思っています。

「秩父山地の歴史と文化」読むと今まで色々と持っていた秩父山地についての知識の小断片がつながって何かを語りかけているようで、高校生ではありませんがとてもよい解説文だなあと思いました。
 また、文中の一心行者という人は信州上田の出身とありましたが、地元の私は全然知りませんでした、どんな人なのでしょうか?
 秩父困民党についても、そういえば井出孫六が書いている事を思い出し読んでみようかな、と思いました。

「秩父山地の歴史と文化」を勉強してみて、信州と武州の一体性を理解できました。国の境というものは為政者が勝手に作ったもので、山の民は一つの山塊を自由に行き来していたのだろうと思います。
 一心行者は武石村の人でこちら
http://www.asahi-net.or.jp/~mi5h-skri/nagano/date/e_nagano/ueda/g_takeshi/event/010415_itushin.html
などにくわしく書いてあります。おそらく秩父との関係はありませんが、両神山(私の住む町にある立派な山です)の修験の人々は、御嶽山を開いた普寛行者(秩父郡大滝村出身)を尊敬しており、同じく御嶽山の行者だった武石村の一心行者も尊敬の対象だったのだろうと思います。
 『秩父困民党群像』や『峠の廃道』など、井出孫六さんの一連のご本は今となっては古くなりましたが、秩父事件が今のようによく知られるようになる前の作品として、記念碑的な作品だと思っています。

武石で江戸時代に修験道がさかんという事は何かと出ていて、あの場所にどうしてだろう?と今ひとつ納得できなかったのですが一心行者の地元だった訳ですね。テレビのニュースなどで武石の神社で火渡りの行事をやっていたのを見た記憶も思い出しました。今度、行った事の無い一心神社へ行ってみようと思います。
 両神山は日本百名山だからと一回日帰りで登ったのですが、ただ登っただけです。
 また職員研修でずっと以前、井出孫六の講演(信濃の国の歌についてだったか)を聞いた事がありますが、本を読もうともせず、ただそれだけで終わっていました。

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