一週間が終わってやれやれだ。
さて、先日も見ていただいた滝沢ダムの現状だが、この写真も7日に撮影した一枚。
浜平よりやや奥だから、塩沢あたりか。
モミの木が水没している。
このモミから、読者諸賢はどのようなメッセージをお感じになるだろうか。
曽野綾子は、小説『湖水誕生』で、ダム湖の湛水風景を次のように描いた。
木々は納得しているという風に、彼らは感じていた。なぜなら、湖は人々の生活を支えるために生まれつつあるのだったし、そのために木々は死ぬことを納得しているとしか思えないのだった。
どうも恐るべき感性だが、この表現に共感する人が多数であれば、日本の生態系には気の毒でたまらないことになるがどうだろうか。
曽野さんの文章の前後の文脈が分からないので、単なる推測ですが。
「彼ら」が「人々」の中に含まれるのであれば、過疎地における雇用確保の公共事業にも思えます。そしてそんな光景が日本中で行なわれた事を曽野さんは知っていたはず。
能天気的なところが曽野さんにあるのは確かだとは思います。
9年前に読んだ図書館本からの引用なので「彼ら」が誰をさすのか確認することができないのですが、湛水に対する著者の感覚を述べたものだと思っています。
読んだ直後に書いたノートからの再引用のため、やや不正確で申しわけありません。
http://blog-yasutani.xrea.jp/booklog/2006/04/post_48.html
そういえば、徳山ダムも今、試験湛水中なのですね。
http://mainichi.jp/select/today/news/20080113k0000m040130000c.html
私もその小説を読んでいないので間違った感想かも知れませんが、たとえば外国のある風景写真を見て、そこから自分の中で勝手にイメージを増幅させ「木々は納得しているという風に、彼らは感じていた。・・・」という(詩情優先の)雰囲気に近いものを感じました。
想像するしかない場所、見知らぬ土地だから、部外者だから書けるような。
自分がその山や森から恩恵を受けてきた、木々に生かされて来た者たちは
そんな風に思えないはずです。もしその「彼ら」が本当にそう思うとしたら、とても痛々しいことです。
人間の経済活動のひとつに過ぎぬダム建設のために生命を奪われつつある生き物が、「納得」して死んでいくという想像力は、ポエジィとは対極にあるように思います。
想像力は現実を知るところから出発しなければならないのではないか、と。
ダム建設に伴って、補償金を手にして山村から脱出することができたり、工事仕事に出ることによって山仕事や畑仕事をしなくても現金収入が得られるのも現実ですが、それは本質ではないように思います。
吉瀬様
仰る通りだと思いました。
補足します。
丹生ダム建設が、色々ありまして凍結されダム本体の着工が未だなされていないのはご存知の事と思います。
ウイキデピアにありましたが、工事の凍結に一番反発しているのは地元だそうです。元々の治水の目的の他に、「ダム建設の見返りとしての固定資産税の還元と、人造湖が出来る事による観光収入」が見込めなくなるというものだそうです。
それはともかく、「ダム建設が中止されるなら、《高レベル放射能廃棄物処理施設の誘致》に立候補するって...何なのでしょうか?
義父は現在床に伏せって過ごしていますが、60余年を過ごし生活を支えた山里がなくなって後、より無口になり昔話をしなくなりました。
私は義父が「木々は納得している」とは決して思っていないと感じています。