カティ・マートン『メルケル』

 アンゲラ・メルケルの評伝。

 メルケルは、世界で最もタフな交渉者だったと思われる。
 最もタフだというのは、強気で強情だという意味ではない。
 決して諦めることなくどこまでも合意を求め続けることである。

 彼女が首相の地位にあった間じゅう、ほぼずっとプーチンと対峙し続けなければならなかった。
 プーチンは性格が悪く、傲岸で、筋金入りの嘘つきだったが、とりあえず合法的に選ばれた軍事大国の指導者だったから、彼と交渉しないわけにはいかなかった。
 とはいえそれは、おそろしく困難で根気のいる交渉だったはずだ。

 プーチンと数時間以上に及んで渡り合い、何らかの譲歩ないし合意を引き出すには、常人では考えられない人間力と体力が必要だと思うが、彼女は10年以上もそれをやってきた。

 2010年代後半にはメルケルの交渉相手としてもう一人、トランプという低劣で厄介な人物が加わった。
 オバマの次のアメリカ大統領がトランプだったのだから、落差は激しい。
 トランプが取り返しのつかない愚行を仕出かさないよう、釘を差すのも、困難だったに違いない。

 メルケルが体現していたのは、民主主義の価値観だった。
 彼女は、EUとNATOが民主主義の砦たることを理想とし、ヨーロッパをリードしてきた。

 ヨーロッパが全体主義や差別主義に反対し、民主主義を共通の価値観とするには、ドイツが範を垂れる必要があった。
 右派による反発も少なからずあったが、メルケルはそれを実践してみせた。

 政治の表舞台から退いた彼女は今、彼女が理想とする質素で静かな日々を送っているだろう。

 2022年2月にプーチンが惑乱し、ウクライナに侵攻して世界を混乱に叩き込んだ。
 当然のことだが、メルケルはこれに対する政治的発言を行っていない。
 ドイツの現在の大統領はショルツ氏なのだから、その任にあらざるものがあれこれ見解を述べるべきでないと考えているからだろう。

 ドイツがロシアからエネルギーを大量に購入していたことに対し、メルケルの責任を問う意見が散見される。
 ことによると、プーチンとメルケルの間で、なんらかのdealがあったのかもしれない。
 しかし、それがプーチンをつけあがらせたというのはおかしい。

 ドイツが自給しきれないエネルギーを購入し、ロシアが利益を得るといった構図は、ごく当たり前の経済関係である。
 その時点でプーチンが非道な戦争を始めるなど、誰も予測できないし、プーチンは必ず嘘をつくということを前提に二国関係を作ることも不可能だ。
 もっとも現段階において、状況は一変したから、少なくともプーチンのロシアが世界と共存するのは不可能で、経済関係を結ぶことも基本的に難しい。

 ショルツ氏の判断は、おそらくメルケルでも変わりなかったと思われる。
 ロシアからのエネルギー輸入を即座に停止することは不可能としても、可及的早期に全面禁輸に向かうこと、一方でプーチンの頭を冷やさせるための交渉を続けただろう。
 プーチンとの対話については、メルケルのかつてのパートナーだったマクロンが頑張っている。
 メルケルが自由・民主主義の砦としたかったEUとNATOは一段と存在感を強め、北欧の二つの中立国がNATO加入方針を決めた。

 メルケルの時代は終わってしまったわけでない。
 波は高いが、状況は着実な改善を示している。
 警戒すべきは、メルケル時代もそうだったが、極右ナショナリズムである。

(ISBN978-4-10-138863-2 C0193 \520E 2021,11 文藝春秋 2022,5,18 読了)