井上伝蔵の生涯を描いた小説。
秩父事件の真実に迫る方法は、歴史学的研究だけではない。
例えば小説はフィクションであることが前提となる。
事実にあくまで拘泥しなければならない歴史と違って小説は、事実の裏に存在した感情のアヤやディテールを描くこともできる。
本書を読み進めつつ、明治17年の世界に浸りながら、とても新鮮な記述に接して、小説のよさを強く感じるところがあった。
それは、明治17年3月の春季自由党大会に参加した高岸善吉と村上泰治が秩父に戻り、井上伝蔵や坂本宗作・落合寅市らに大会の様子を報告する場面の描写である。
この場面は著者の創作であり、史実の裏付けはない。
しかしおそらく、いや必ず存在したはずの場面である。
著者はここで、負債に苦しむ民衆を救う方法を模索しようとする伝蔵らと、政府転覆へ向けた直接行動に走ろうとする泰治との、感情の微妙なもつれを描く。
ここは、つくづく考えさせられる。
当時の自由党中央の一部には、政府による理不尽な弾圧に激しい怒りを持ち、なんらかの実力行使による政府転覆をめざすグループが存在した。
大会に前後して開かれたグループ会議で、民衆を組織化して武力蜂起を計画する方針が語られたことについては、又聞きながら落合寅市の回想記に証言がある。
実力行使と言っても、政府高官暗殺から少人数によるクーデター、あるいは大衆的な武装蜂起まで、さまざまなあり方が想定され、意見は必ずしも一致してはいなかったはずだ。
泰治はどのような立場だっただろうか。
下日野沢村の加藤団蔵は、泰治が在獄していなかったとしても秩父事件には決して参加しなかっただろうと断言している。
泰治が考えていたのは地租軽減強願であり、困民救済ではなかったから、というのが団蔵の見立てである。
この説明には説得力がある。
坂本村の自由党員福島敬三も、困民党の蜂起には参加しなかった。
地租軽減要求は当時、上毛自由党の活動の一つの柱であり、泰治は宮部襄らとの関係が強かったから、彼が地租軽減を主張していたことも理解できる。
しかし、負債に苦しむ秩父の現実は、地租が多少軽減されたところでどうにかなるものではなかった。
秩父だけでなく、群馬県の民衆にとっても状況は同じだった。
伝蔵らが直面していたのは、秩父の現実であった。
秩父の民衆のおかれていた現実を、泰治は受け止めることができただろうか。
著者は負債問題に取り組もうとする伝蔵と、政府転覆に走ろうとする泰治を対照的に描いている。
世の現実を変えようとするには、人々が動かなければならない。
人々が動くには、何らかの行動綱領がなければならない。
行動綱領を作るには、カリスマ的な指導者の託宣ではなく、人々の十分な議論と合意が必要である。
現実に基づいた議論と合意こそが人々を納得させ、行動に立ち上がらせることができる。
秩父困民党が立ち上がったのは、伝蔵や泰治らが運動の方向性について議論してから、何ヶ月もたってからである。
その間困民党は、幹部宅土蔵や山林集会において、議論を積み重ねた。
田代栄助が取り調べにおいて述べた四か条要求は、そのようにして作られた困民党の行動綱領である。
ここには、専制政府転覆などということは書かれていない。
書かれているのは、当時の秩父の民衆が生活の中で困っていた生活要求(負債問題・学校費・雑収税・村費)である。
しかし、これらの問題を解決するには、県や国家と対決せざるをえない。
生活を守るために国家と対決し、人民を安楽ならしめる自由政府を作る、というのが、時間をかけて到達した、伝蔵らの結論だったのである。