岩根承成『群馬事件の構造』

 群馬事件の歴史的な位置づけが明らかにされている。

 負債民による返弁騒擾は、明治16年から17年にかけて、全国各地で多発した。
 その時期は、自由民権運動、なかでも自由党の活動が、政府の弾圧によって、何らかの実力行使による以外に自由や権利が保障される政治の実現が困難になった時期と重なっている。

 ところが、この時期の自由党中央は、立憲改進党への攻撃と活動資金の募集を中心に活動しており、日々の暮らしをめぐる人びとの苦しみに寄り添う活動を、表面的には行っていなかった。

 自由党員の中には、自由民権の実現のために命を賭してもよいとまで考える一方で、一般の民衆に対し、政治や社会について共に語るに値しないと見下す意識から抜け出せない人も多く、自由民権運動と負債返弁騒擾が結びつくことはほとんどなかった。
 そういう中で、負債民と自由党とが結びつき、専制政府打倒に向けて立ち上がったのは、明治17年に起きた群馬事件と秩父事件だった。

 明治17年春以来、自由党の一部に、民衆との協同を模索する動きが生じた。この動きについては、自由党史などに詳述されておらず、党をあげた動きではなかった。
 とはいえ、この動きは、福島県と関東各県の自由党組織を横断して伏流し、一部が記録に残っている。

 群馬県の自由党組織は、明治17年春以降、地租軽減を掲げて民衆の組織化を図った。
 この時期、焦眉の民衆的課題は負債問題だったが、松方デフレにより農産物価格が暴落し、収入が激減する中で、地租負担は相対的に重くなったはずだから、地租軽減要求はほぼすべての民衆の要求だったはずだ。

 党全体の組織をあげた闘争方針ではなかったにせよ、自由党が民衆の経済要求に組織的に寄り添おうとした点で、減租運動は大きな意味を持った。
 ここまでくれば、自由党が負債問題に関わろうとするまで、あと一歩だった。

 これらの活動を進めたのは、宮部襄ら党の最高幹部たちでなく、群馬在地の自由党員たちだった。
 彼らの中にも、二つの傾向があった。

 一つは、経済要求より挙兵をむしろ優先させたいという立場の人々である。日比遜・三浦桃之助・湯浅理兵ら自覚的な自由党員がその立場で、事件を計画・指導した。
 彼らの挙兵計画は、スケールは大きいものの、秩父の自由党が山林集会や村々で負債問題に取り組む中で党員を獲得してきたような、地を這うような組織活動を伴うものではなく、虚空に声を上げれば応ずるものがいるであろうという程度のものだったらしく、宮部ら最高幹部からも制止された。

 もう一つの傾向は、のちに秩父困民党が行ったように、負債問題に取り組む中で自由党の組織を建設しようとする在地オルグたちだった。東間代吉・山田米吉らがその立場だったが、群馬県ではこのような人々が秩父ほど数多く育っていなかった。

 このような状況をみると、山林集会や負債者名簿の書き出しなどの活動を行いつつ、自由党への加入を勧めた秩父困民党の闘い方が、極めて有効だったことが痛感される。
 負債問題に誠実に取り組む最高幹部たち(井上伝蔵や加藤織平、困民党トリオら)と在地で問題に取り組みつつ自由党への加入を呼びかけて回った在地オルグが、秩父困民党の骨格を形成していたことがよくわかる。

 結果的に事件は、蜂起の目論見は何一つ実現せず、完全に破綻した。在地オルグたちさえ、武装蜂起に積極的に参加しようともとせず、富岡・松井田・前橋の各警察署と高崎鎮台に進撃するという当初の進撃先とはまったく異なり、丹生生産会社襲撃を果たしただけで終了した。

 四月の照山事件と群馬事件により、上毛自由党は、最高幹部と中堅幹部のほとんどを失った。
 それでも小柏常次郎や新井太六郎ら、残った在地オルグは秩父事件に加担していく。
 それは、在地に根ざした自由党員たちの堅固さと誠実さを証しするものといえよう。

(ISBN4-88058-886-5 C0021 \2381E 2004,3 上毛新聞社 2022,1,11 読了)