秩父事件の思想についての評論。再読。
さまざまな角度から秩父事件に迫ろうとしている。
一つは、敗北に終わった秩父事件指導者たちの思いがどのようなものだったかということ。彼らの周辺にある史実から、それを浮き彫りにしようとしている。
秩父事件が自由民権運動の一環であったにせよ、世直し一揆であったにせよ、指導者たち一人ひとりが事件に向き合うその姿勢は、それぞれだっただろう。
事件が何だったにせよ、一人ひとりにとっての秩父事件の意味は同一ではない。
著者は、秩父事件の普遍的な意味を追究することに、特に意義を認めてはおられない。
「秩父事件が事件として終わったあとの百年間にそれがどのようなイメージとして人びとに捉えられたか」を明らかにしたいという言い方はわかりにくい。
とはいえ、小説としてではなく、かといって歴史学的な著作としてでもなく、史実に基づく批評として秩父事件に迫ろうとされていることがわかる。
歴史に親しんできたものにとって、そのような方法は必ずしもしっくり来るものではない。
例えば「伝統」とか「情念」とか「日本人」などという概念は、あまり安易に使われるべきでなかろう。
札所23番で乱打された鐘の音をも史料として扱い、そこに困民党のエトスにおける幻影の革命を視ようとする、というような言い方は、批評文としては許されるし、面白いのかもしれない。