新井勝紘編『近代移行期の民衆像』

 維新期から自由民権期にかけての民衆運動に関する論文集。
 『民衆運動史』全5巻のうちの第4巻である。

 維新期から自由民権期は社会が大きく変動し、民衆運動すなわち民衆による社会への働きかけが活発化した時期である。
 1980年代以降の研究史が明らかにしてきたのは、経済活動と政治的実践を中心に歴史を描こうとすると、民衆の切実なる営為の相当部分が抜け落ちるということだっただろう。
 それだと、その時代の民衆史を正しく描いたことにならないのではないかというのが、本書の論者たちの視覚なのだろう。

 須田努「暴力・放火という実践行為」は、世直し騒動における暴力の問題を考察している。
 世直し騒動に見られる暴力は、共同体が正当に機能しなくなる状況下において発生し、暴力の延長線上に社会変革への展望を持たないとする。
 世直し騒動は、幕藩制秩序を否定し、正常な民衆支配が機能しなくさせるものであったが、新たな社会への展望を示すものではなかったことがはっきりした。

 小松裕「自由民権期における「地域自治」の構想」は、田中正造の言説を通して、明治初年の地域指導者の中に育った自治意識について分析している。
 新政府による諸改革が次々と地域に降ろされ、地域指導層がそれへの対応に追われた自由民権運動前の時期は、在地における民権活動家が育つ上で、重要な役割を果たしたと考えている。

 地租改正を担当したり、区会議員として教育問題に取り組んだりした経験が、民権運動家・田中正造を作っていく契機になったのではないかという指摘だが、この点は同感であり、彼ら地域指導層の主体形成をよりていねいに見ていくことが必要と感じる。

 鶴巻孝雄「<国家の語り>と<情報>」は、幕末期における多摩地方の豪農たちが、対外関係や京都における政局に関し、現代に匹敵する詳細な情報を得ていたとする驚くべき実態を述べている。
 これらの情報に接した彼らが在村にあってナショナルな意識を有し、国家のあり方に関する一定の展望を模索するのは当然と思える。
 知識層が中心であるにせよ、幕末の在地でこのような各種情報が共有されていたとすれば、明治以降に彼らが啓蒙思想や民権思想を自分のものとしていくのは、ごく自然だったといえよう。

(ISBN4-250-20016-7 C3021 \3500E 2000,7 青木書店 2021,10,13 読了)