後藤靖『自由民権』

 自由民権運動を近代史の中に位置づけようとした概説。
 1970年代初頭の本だが、このころの研究状況がうかがえる。

 自由民権運動をブルジョア民主主義運動として位置づける古典的な立論は、近年すっかり影を潜めた。
 イギリスやフランスの民主主義革命運動をモデルとして、日本の自由民権運動がそのどの段階に該当するかというような議論に、現在、説得力があるとは思えない。
 だが、歴史の長いスパンの中で自由民権運動を位置づけることはやはり必要であり、史的唯物論的な史論が有効性を失ったとは思っていない。

 マニュ資本家・高利貸・中小地主・農民・前期プロレタリアなど被支配階級と、華族・藩閥官僚・政商・寄生地主など支配階級との間に基本的矛盾、マニュ資本家・高利貸・中小地主と農民・前期プロの間に副次的矛盾があったと本書は措定する。
 武相・秩父・群馬では、高利貸と中小地主・農民・前期プロの間の副次的矛盾が激化し、高利貸が権力と癒着する状況が見られる。

 これも古典的見解だが、士族民権から豪農民権、さらに農民民権へと運動の主たる担い手が変わっていったと記述される。

 現象的にそのような流れがあったのは事実だろうが、政治的な意識は必ずしも経済的な立ち位置と一致しない。
 富裕層が経済的に苦しむ人々に共感し、ともに立ち上がる事例は、近代になれば少なくない。

 近代とは、個人が個人である時代である。
 個人の思想は、その個人が体験や学びの中で形成するものであり、経済的な立ち位置は彼の思想形成の一要素以上の意味を持たない。

 武相あたりで民権家たちと負債者たちがクロスする場面がなかったのは、経済的な立ち位置の問題でなく、民権思想の質の問題であろう。
 天賦人権論や近代国家論を、地域の現実の中でどれだけ消化できていたか。
 板垣ら幹部も加波山で決起した壮士たちも、思想を地域の現実の中で鍛える経験を持つことができなかった。

 秩父事件の指導者・参加者は、自らの思想を体系的に語る機会を持たなかった。
 それをもって、思想がなかったと考えるのは、思考停止だろう。
 残された言葉の断片から、彼らの思想(もちろん一枚岩ではない)の復元をはかるのが、歴史の仕事だろう。

(1972,3 中公新書 2021,8,17 読了)