高橋敏『清水次郎長』

 清水次郎長こと山本長五郎の一代記。

 駿河は小藩・飛地領・旗本領・天領が混在し、統一的な支配がしにくいところだったため、犯罪者やお尋ね者の取り締まりが難しい地域だったという。
 その点は、西秩父を含む関東一帯と似ている。

 成立当初の江戸幕府にとって、外様大名による叛乱は脅威だったから、将軍が住む江戸や大御所(家康)のいる駿府の周辺は、親藩・譜代や旗本に支配させようとした。
 しかし、兵農の居住地分離が進み、平和な時代が続くと、このようなモザイク状の支配地の治安を維持することが困難になった。
 賭場の開帳その他の迷惑行為・犯罪行為の常習者で、近隣の同業者と敵対・抗争したり、親分子分関係により系列化された集団を博徒と呼ぶならば、このような人々が生まれる余地は、このような地域に多かった。

 江戸廻り航路の中継基地であり、富士川による甲州産物資の集散地でもあった清水港では、人と金が激しく動いた。
 そのことも、長五郎の勢力が拡大した背景だった。

 戊辰戦争において両軍は、すぐに役立つ武力を必要とした。
 仇敵の黒駒の勝蔵は赤報隊に属し、長五郎も「官軍」についた浜松藩の手先となって清水港の取り締まりを担当した。

 一方、幕末の秩父・西上州はどうだっただろう。
 文化・文政期以来、徘徊する博徒・無宿者を取り締まる禁令がたびたび出されているから、そのような人々が関東一円に存在したのは事実だろう。
 大宮郷あたりは小集散地だったから、博徒が存在してもおかしくない。
 しかし管見の限り、大規模な抗争が発生するほど多くの博徒集団が存在した記録はなく、「一家」を冠して呼ばれる集団についても、見たことがない。

 秩父困民党総理田代栄助も、博徒といわれる。
 本書にも栄助について、「秩父を代表する老練な博徒の親分だった」「田代は困民の訴えに共感し、阿漕な高利貸相手に交渉を続けていた」と評されているが、彼について新知見となるような事実は特に紹介されておらず、井出孫六氏の小説『秩父困民党群像』の描写と東海地方の博徒像から、栄助をイメージして書かれているように見える。

 田代栄助は取り調べに際し、「人の困難に際し中間に立ち仲裁等をなすことじつに十八年間、子分と称するもの二百人」と語っている。
 栄助の前半生について、じつはあまり詳しくわかっているわけではない。
 長五郎は維新期に至るまで、大親分とはいえ無宿者で、賭博と抗争に暮らしたのだが、栄助は少なくともそうではない。
 二百人の子分と豪語しているものの、秩父事件参加者のうち、栄助の「子分」だったらしき人はほとんどいない。
 もちろん博打は打っただろうが、山繭飼育に取り組む心優しい秩父の民というのが、史料から見える田代栄助像である。

 明治17年1月の賭博犯処分規則の公布と、それに伴う大刈込は、博徒にとって大打撃となった。
 権力の手先になり、堅気の事業に手を出すなど、安泰な状態にあった長五郎さえ、逮捕・投獄される。

 田代栄助が自由党に入党を申込んだ背景に、彼の反権力意識や大井憲太郎の演説会(田代が参加したかどうかは不明)などの他に、賭博犯処分規則への反発がなかったとは言い切れない。

(ISBN978-4-00-431229-1 C0221 \800E 2010,1 岩波新書 2021,8,11 読了)