長谷川昇『博徒と自由民権』

 名古屋事件参加者のプロフィールを徹底的に調べた書。再読。

 本書の最初の刊行は1977年だが、名古屋事件の全体像については、いまだ解明されていないように見える。

 事件参加者たちが行ったのは資金強奪のための強盗作戦だったのだが、作戦の目的や実行のための組織づくりが今ひとつ、明らかでない。
 目的と組織がはっきりしない運動はありえないので、未だ解明に至っていないと理解すべきなのだろう。

 事件の動きとしては、明治16年12月から明治19年8月までの51回にのぼる強盗作戦(未遂を含む)とそれに付随する殺人・傷害事件が全てで、政治的な行動は行われていない。
 さらに、活動全体を指導する明確な指導部が存在したとは言えず、参加者の組織化がどのような理念ないし目的のもとに行われたかも、はっきりしない。
 また、自由党本部との関係も不明である。

 明らかに中心人物である大島渚は、「国事を改良するには第一金員が入用」という山内徳三郎の言葉により度重なる強盗を実行したと述べているので、政治的な目的らしきものがあったかに見えるが、それ以上は不明である。
 山内・大島らは博徒で、幕末には尾張藩の草莽隊に参加し、維新後用済みとなった草莽隊が切り捨てられたのちもつながりを保ち、自由党に加わった。
 彼らは強盗作戦に誘った知人を、自由党へ入党させており、何らかの政治的な意図が存在したことが想像されるが、著者は、彼らの反権力意識の背景に、明治17年前後から始まった博徒組織への弾圧政策が存在したと強調しておられる。

 これら博徒グループが行動(強盗)を開始してまもなく、地元の自由党壮士グループが加わる。
 大島らは強盗により得た金で政府転覆活動を行おうとし、壮士グループは強盗で奪った金で贋金を大量に製造し、反政府活動の資金とする戦略だったというが、その点を煮詰める間もなく、作戦は続けられた。
 とはいえ、壮士グループは博徒グループに対し同志というより手下扱いしており、実行グループの組織自体が単なる寄せ集め集団だったことがうかがえる。

 組織活動の実態や参加者の思想をうかがわせる史料が少ないのだろうが、この事件の背景に自由党がどれほど関わっていたのか、さらなる解明がほしいと感じる。

 ところで本書は、激化事件に博徒が果たした役割を軽視すべきでないと強調される。
 秩父事件のリーダーだった田代栄助・加藤織平らも、博徒だったと言われている。
 群馬事件にも博徒が参加している。

 本書は幕末以来の、愛知県における博徒集団の盛衰史・抗争史から説き起こし、彼らが戊辰戦争期・維新期・自由民権期にどのように動いたかを詳細にあとづける。
 これにより、愛知の博徒集団が一つの政治勢力として重要な役割を果たしてきたことが明らかになる。

 別稿で「田代栄助はヤクザでルンペンプロレタリアートだった」と主張する佐高信氏の論を批判した(秩父事件研究顕彰協議会会報『秩父』202号)が、田代や加藤が博徒と呼ばれていることを否定するつもりはない。
 田代がどのような前半生を過ごしてきたかはほとんどわかっていない。
 また加藤織平も、落合寅市ら困民党発起人たちから「親分」と呼ばれる存在だったとも言われる。
 これらの実態はほとんど未解明である。

 ただ秩父で、愛知県のように博徒集団が林立して抗争していたことを示す史料は皆無である。
 困民党の指導者に博徒と言われるような人々が存在したのは事実だが、その実態はやはり、費場所をめぐって刃傷沙汰に明け暮れるようなプロのヤクザ集団とは全く異なり、遊びとしての博打の好きな人々というのが実態だったと思われる。

(ISBN4-582-76092-9 C031 P1100E 1995,4 平凡社ライブラリー 2021,8,5 読了)