群馬県甘楽・多胡・緑野地方の秩父事件参加者の行動・同地における困民党軍の動き・官側の対応等を、地域と時系列に沿って叙述されている。
これを読めば、同地方における秩父事件の詳細がわかる、貴重な本である。
西上州の秩父事件参加者は、日野・三波川・矢納周辺など自由党員を中心とした人々と、駆り出しによって参加した山中谷を中心とする人々に大別されそうだ。
自由党系の参加者を組織したのは小柏常次郎・新井太六郎・横田周作・遠田宇市らだった。
群馬事件と照山俊三殺害事件により上毛自由党の組織は壊滅状態にあったと思われるが、彼らはその生き残りというべき存在だった。
秩父困民党に接触してきたのは小柏常次郎だったが、事前に(明治17年春の段階で)彼が秩父自由党のメンバーと面識があったかどうかはわからない。
彼らは地域で自由党の組織化を進めつつあったが、秩父での武装蜂起にあたって、党組織を動員した。
これは、秩父困民党が行ったのと同じ方式での組織活動である。
また、新田郡西長岡村の蜂起を組織した住居附(乙父村)の中沢鶴吉のやり方も同様である。
一方、山中谷各村の動員は基本的に、駆り出し方式だった。
これは、世直し一揆のやり方と同じである。
秩父事件に、ニつの動員形態が混在していることが、わかる。
また、信州転戦以降の困民党軍に、皆野本陣崩壊以前と比べ、世直し一揆的要素が大きくなっていることも、特徴的である。
北甘楽郡は秩父事件にさほど関わりがなかったと誤解していたが、信州転戦部隊への手当てとして群馬県警が侵入していただけでなく、信州での戦いから抜け出してきた参加者たちの多くは、厳戒が予想される十石街道を迂回して、現南牧村域に入り、結果的にはこっちで逮捕された。
著者は、参加者や官側の進行ルートを丁寧にたどっておられる。
今は廃道化した道や峠についても詳しく、明治初年の西上州には、網の目のように峠道が存在していたのだということがよくわかる。