上原邦一『佐久自由民権運動史』

 民権運動期から初期議会期にかけての、佐久地方における運動略史。

 佐久地方は本州島の深奥部に位置し、海から最も遠い地点も、ここに所在する。
 都会から遠い場所は政治からも遠いのかといえば、少なくとも明治初年は、そうでなかった。

 民権運動の高揚期に長野県では、至るところで若い人々による学習運動が起きた。
 佐久一帯も同様で、むしろ小さな学習グループの数は、県下でも安曇野周辺と並んで多いほうだと言えた。
 井出為吉は自村大龍寺での学習会を牽引する一方で、奨匡社とつながりを持っていた。

 これらの学習運動の中で育った人々が、地域における民権運動の中心となり、のちに地域の自由党組織の核になった。
 激化の時代になると、群馬事件・秩父事件・飯田事件・大阪事件などに佐久の民権運動家が何らかの形で関わった。

 秩父事件に飛び込み、国家と武力で対峙するに至ったのは井出為吉と菊池貫平だけだった。
 佐久の他の民権家たちとこの二人の思想的立ち位置が、ことさら異なっていたわけではなかっただろう。
 為吉・貫平は、秩父事件の体験によって思想的転換をとげたのである。
 その内実については、しっかり検討する必要がある。

 前山村の早川権弥は、死屍累々たる東馬流を目の当たりにしてその惨状を日記に書きつけたが、おそらく知己であっただろう為吉が困民党の幹部だったことを知っていただろうか。
 権弥はその後も民権派・民党の政治家として活動を続け、為吉は出獄後、役場吏員として沈黙し続けた。

 二人の後半生は対称的だが、いずれも佐久における明治の知性として輝くべき個性だった。

 執筆されたのが早かったため、全体としては、民権運動史の中に佐久の動きを位置づけるという書き方になっている。
 佐久地方独自の動き、なかでも民権期の学習運動について、さらに掘り起こしがほしいと感じる。

(1973,12 三一書房 2021,7,5 読了)