大沼保昭『「歴史認識」とは何か』

 江川紹子さんの質問に対し、十五年戦争の戦争責任についての考え方を整理し、本質的で現実的な解決の方向性について、著者が語っている。

 戦争責任に関する議論は、玉虫色ではいけないし、中途半端でもいけない。
 しかし、特に被害者の被害感情は、一様でない。
 原理主義的な戦争責任論は、理論的に一貫性があったとしても、だれもが受け入れ可能とは限らない。
 著者は、責任の所在から目をそらすことなく、なおかつ、より多くの人々に受け入れ可能な解決策を探るという、非常な困難な方向を探ってこられた。 

 韓国や中国には反日原理主義的な論評があり、「日本」国内にも、脊髄反射的に反韓・反中の言説を撒き散らす人々と、本質をごまかそうとしてるとか、真の敵を免罪しようとしているなどと言って、原理主義的な解決策以外の提案はすべて欺瞞だと攻撃する人々がいて、問題の解決をこじらせている。

 1960年代くらいから、意見や認識が完全に一致しないものは敵だ的な風潮が強くなった。
 かつて「革新」と呼ばれた体制批判勢力においてそれは特に顕著で、自セクトと意見をやや異にする人々に最も注力して打撃を加えようとするのが、一般的だった。
 だが、議論は必要にしても、事態を前にすすめる行動は、もっと必要である。

 著者は、人間にとっての美徳は正義だけではない、と述べられている。
 ここが、問題解決の肝なのだろう。

(ISBN978-4-12-102332-2 C1221 \840E 2015,7 中公新書 2021,5,31 読了)