藤木久志『中世民衆の世界』

 戦国時代を含む中世の民衆生活を、制度と実態から生き生きと描いている。

 近代社会の母体は近世だが、列島における近世社会特有の慣行や制度は、中世・戦国期に原型が作られた。
 質地に限らず、担保として所有権が移動した田畑は、元金返済によっていつでも請け戻すことができるという慣行も、その一つだった。

 中世末の在地に居住していたのは、地頭(土豪もしくは小領主などと表現される)・百姓(名主)・下人の、おおむね三種類の人々だったらしい。
 地頭は武力を持ち、大名に従属して戦闘の際には出陣した。
 百姓は、地頭に従って戦場に出る場合もあったが、基本的には在地でそれぞれの生業に従事して、各種年貢を負担した。
 戦国期に近づくと、畿内に近い地方では地頭の存在が希薄な自然村が形成され、百姓による自治的な村落運営が定着した。
 関東山間部では、惣村的な村が形成されたわけではないものの、主たる大名がほぼ滅亡・改易されたため、地頭の殆どは帰農して、草分けを中心とする自然村が形成されたものと思われる。

 百姓にとって村は、生活の基盤だった。
 村なしで百姓の生活は成り立たない一方、成員たる百姓が欠ければ、村が正常に機能しなくなった。
 契約によっても所有権が完全に移転するわけではないという慣行は、村落を維持するために必要な制度だった。

 一方領主にとって、村は、収税の基礎単位であり、収税を担保する基盤だった。
 流血によって近世社会を準備した織田信長にすれば、権力に歯向かう可能性のある村落など、皆殺しを含め徹底的に殲滅する対象だったが、それは内乱期の論理であり、一般的には村落は平穏であるべきものだった。
 したがって、逃散や越訴など、幕藩制社会が成熟すれば禁じられる村落の行為も、必ずしも犯罪とはみなされなかった。

 山論・水論といった村落同士の争論は、戦国期までは自力救済が基本だったため、武力闘争に発展することもあった。
 本書などに例示されている村落同士の争闘は近江など、村落自治の先進地が多いから、関東や東北でどうだったかはわからないが、生活をかけたこのような争いは、どこでも発生したと見るほうが自然だろう。

 江戸時代以降は、当事者同士の取り決めや仲裁人により、流血等の事態を回避するようになったが、農業が行われる限り、(今だって)山論・水論は発生する可能性がある。
 鍵はやはり、村落共同体にある。

(ISBN978-4-00-431248-2 C0221 \800E 2010,5 岩波新書 2021,5,31 読了)