上条宏之『地域民衆史ノート』

 信州の近代民衆史を掘り起こしている。
 普選要求運動について詳しいが、自分としてはやはり、自由民権運動に興味を惹かれた。

 民権運動の流れに関しかつて、士族民権から豪農民権、農民民権へと階層的に広がっていったという、いささか単純化された理解があった。
 自由民権思想を一人ひとりがどのように理解していたかは、必ずしも一様でないだろうが、在村で新たな知識や思想に接することができたのは、ある程度生活に余裕のある人々だっただろう。
 彼らは、いわゆる壮士とは異なり、何らかの形で農を始めとする生業に携わり、村では何らかの役に就いて地域と国家の接点にあって、人々の生活の現実と向き合わざるを得ない立場にあった。
 信州の代表的な民権運動家である松沢求策も、そのような一人だった。

 天賦人権論に接した人々の中には、福沢的な啓蒙思想と自由民権思想が混在していた。
 啓蒙思想の流れに属する人々は、知識を身につけることは、立身出世の重要な手段となり、そのことにより、人は国家に貢献できる人材となれると発想した。
 民権派は、天与の自由や権利が保障されず、政府が一方的に税などを賦課することは国家のあり方として不当だと考え、憲法の制定や国会開設を要求すべきだと考えた。
 啓蒙派と民権派は対立する思想のように見えるが、いずれの土台にも天賦人権論があり、在地においては重なり合う部分も多かったと思われる。

 武装蜂起未遂に終わった飯田事件を計画した人々は、民権壮士と呼ばれるべき活動家で、中心人物たちが、蜂起に向けて生活要求に基づき民衆を組織しようとしたとは思えない。
 飯田には、民衆的な生活相互扶助組織である愛国正理社が存在し、そのリーダーは飯田事件参加者と重なる。

 愛国正理社は合法団体であり、秩父困民党は非合法団体だった。
 しかし、その差は特に問題とするにあたらない。
 問題は、生活要求と国家変革とをどのようなロジックで結びつけ、民衆を組織していったかだろう。

 この二つの組織の違いは、じっくり検討する必要があろう。

(1977,4 銀河書房 2021,5,24 読了)