八千穂夏期大学実行委員会編『秩父事件・佐久戦争』

 1984年における同大学の講演・論集。再読。

 講演を担当されたのは、有賀義人氏・井出孫六氏・中沢市朗氏・松本衛士氏・上条宏之氏・藤林伸治氏・井上幸治氏・井出正義氏。
 佐久戦争を語るのにこれ以上ない布陣だと思う。

 本書を読み返してみてもっとも痛感するのは、自由民権運動の概念規定がこの30数年を経ていかにやせ細ってしまったかという点だった。

 上条氏は、「信州の自由民権運動は、土佐などの愛国社的潮流に対して、在村的潮流として発足した」「信州には、土佐などで起こった民権運動と違う民権運動の起こり方があった」「自分たちの生活の場を考えることが土台になって、自由とか民衆の権利とかを、次第に自覚していったとみたほうが正しい」と述べて、民衆生活・民衆的経済実態を土台とした政治理論・政治運動としての在村的自由民権運動を構想しておられる。

 氏はまた、「自由民権運動は、全面的な人間解放の運動であってただ単に国会を開けばいいという問題ではない。生活に根ざし、生活の原点から社会のあり方、国家のあり方、人間のあり方を取り上げ、政治の革命を志していた」「自由民権期の運動の担い手たちは、プロフェッショナルな政治家ではなく、農民や商人ですから、毎日毎日の自分たちの生活を、労働を通して豊かにすることを離れ、政治好きで駆けずりまわっていたのとは違う」として、民権運動を生活・労働の次元から経済的・人間的・政治的な近代化をめざした社会運動と捉えるべきことを示唆しておられる。
 以上は重要なノート事項である。

 佐久戦争とは何だったのかについて、いまだ確定的な評価はくだされていない。

 事件前における北相木自由党と秩父困民党のつながりについて、萩原勘次郎が事件直前に北相木を訪れたこと以外に、史料的裏付けを伴う具体的な事実はわかっていないが、それ以前に何らかの形で自由党員どうしの連絡があったことは想定できる。

 債務関連の実力行使なら自分たちは帰村すると述べたが聞き入れられず、やむなく事件に参加したとの発言が井出為吉調書にみえる。
 これが事実かどうかは不詳だが、その後の彼らの活躍をみれば、彼ら二人が事件にきわめて積極的に参加したことは疑いない。

 軍律五ヶ条は、困民党の闘いが、世直し一揆に見られるような非組織的な暴力行使でなく、近代革命軍にふさわしい統制システムを持っていたことを証するものである。
 菊池貫平は参謀長として、秩父困民党を一揆集団でなく人民的な軍隊へと転形する役割を果たしたわけだが、彼が困民党に加わったのが自由党の組織を介してだったことは重要である。
 当時の自由党の一部に、広域的な武装蜂起を探る動きがあったことは明らかなので、貫平らの動きがそれと無関係だったとは言えない。

 郡役所占拠も、貫平の提案だったという。
 秩父郡の宗教的よりどころだった秩父神社から、政庁である郡役所に本部を移動したということは、困民党が政治的存在だということを郡民に示す措置である。

 革命本部の領収証は、軍用金集方の井出為吉によると想像される。
 この領収証ほど、秩父事件の政治性を示す史料はない。

 11月4日に、困民党軍事部門のリーダーだった新井周三郎が重症を負い、田代栄助や井上伝蔵が本陣を離脱し、残った主力部隊は金屋の戦いで壊滅する。
 一揆集団であれば、この時点で四散したはずだが、困民党は菊池貫平を中心に再起して信州へ向かう。

 貫平は、国家との戦いがどのようなものであるかを身を以て体験したのちに、国家となお、闘い続けようとした。
 転戦途中に規律上の逸脱が生じたのは事実だが、貫平の中では、佐久の山河を舞台にまだ十分戦えるという手応えがあったのだろう。

 犠牲を伴う行為である以上、戦うこと自体が目的であろうはずはない。
 高利貸襲撃と負債の破却という行動の中で、国家と戦う戦闘員を募集・組織し、さらに国家と対峙する。
 その先の目標は、専制政府打倒以外にはありえないだろう。

 為吉・貫平の困民党参加は、秩父困民党の政治的性格をくっきりと際立たせたと言えよう。

(1984,11 銀河書房 2021,5,14 読了)