原口清『自由民権・静岡事件』

 静岡事件の包括的な研究書。

 おおむね明治17年以降、浜松・名古屋・飯田の民権家たちが連動して、反権力的な武装闘争を計画していた。

 過酷な抑圧の中で言論活動が行き詰まる中、壮士たちの中には、武力闘争による現状打開を模索する動きが起きていた。
 自由党指導部は、板垣外遊をめぐる内ゲバに加えて、改進党との不毛な対立、さらに活動資金募集カンパニアなど、その存在意義を薄からしめていた。

 民権派の多くは専制政府に強い反感を持ちつつ、指導部の混迷に直面して、闘いの方向を見出しかねていた。
 そうした中で、東海地方の民権家たちによる反権力ネットワークが模索された。
 ここに関わったのは自由党員に限らず、政府転覆にシンパシーを持つ有志たちだった。

 顕官暗殺・広域挙兵など、闘いの方向性は必ずしも一致していなかったが、群馬県の自由党員とやや接点もあり、明治17年11月に秩父事件に関する報道に接して、一時は挙兵論に傾いたものの、秩父事件敗退を知ったのちは暗殺主義に傾き、資金強奪活動には着手したものの、作戦が露見して実行前段階で一網打尽になった。

 この時期、東海地方においても、最大の課題は松方デフレによる生活破綻、そして負債問題だった。
 反権力ネットワークに連なった民権派がこの課題に、組織的に関わった事実は存在しない。
 彼らは政府転覆をめざしはしたが、民衆の抱える切実な課題に取り組もうという姿勢は皆無だった。
 この姿勢は、東海地方のいわゆる民権派壮士のほとんどに共通していた。

 政治要求と経済要求は本来、不可分なのだが、当時の民権派壮士の多くは専従活動家で、自らのなりわいを持たない。
 自由や民権思想の実現のために生命を賭して闘おうとする一方で、民衆の経済状態や経済的要求にまったく興味を示さない彼らの心性はちょっと理解し難いが、それが民権派の現実だった。

 彼らが秩父事件に興味を持ったのは、広域的な内乱状態が実現すれば政府転覆の可能性が高まるかもしれないと期待したからにすぎず、秩父困民党が何をめざそうとしたかなど、壮士たちの眼中にはなかった。

 だから秩父事件敗北の報に接したのち、彼らは広域蜂起をさっさとあきらめ、顕官暗殺へと舵を切る。
 明治に入って以降も例えば、大久保利通が暗殺された。
 しかし、テロで歴史は動かない。
 彼らが日本近代史の中で果たした役割は大きくない。

(1984,2 三一書房 2021,4,27 読了)