寺崎修『明治自由党の研究(上)』

 この巻では、自由党の結党から解党に至る、主として組織・路線面の流れについて、新聞や密偵報告などによってあとづけている。

 自由党の結党は1881年10月だが、支部を持つ全国組織として確立したのは1882年6月の臨時大会においてだった。
 ところがまさにその1882年6月に集会条例が改正され、政党が支部を持つことが禁止され、全国的な運動体としての組織的体制を整えることは、実質的にできない苦境におかれることになった。

 明治政府に国会開設を認めさせた自由民権運動が全国的に展開したのは、続々と叢生した地域の政治結社が演説会を通して世論を盛り上げたからだった。
 これら地域の政治結社が県単位で結集し、さらに全国組織として組織されれば、近代政治にあるべき組織政党の体裁が確立するはずだったのだが、集会条例の改正は自由党が近代政党へと変貌する道を断ってしまった。

 そこへ1882年9月に板垣外遊計画が表面化し、9月には党を割りかねない激論の末、馬場辰猪ほか幹部数名が党を去るというダメージをこうむってなお、板垣は党を放り出したまま7ヶ月もの間、ヨーロッパに出かけてしまう。
 国内では松方デフレの影響により不況が深刻化し、地方経済は苦境に陥りつつあったのだが、その間自由党は地域の現実に向き合おうとせず、板垣外遊を批判する立憲改進党との内ゲバに血道を上げていた。
 1883年春の大会後に決められたのは、偽党撲滅と壮士を養成するための文武館(後の有一館)建設という方針だった。

 自由党の幹部は、政治運動は壮士(職業的な活動家)によって担われると考えていたらしい。
 政治資金も優秀な党員も、地域に根を張った地域組織の日常活動から生み出されるのだが、自由党の幹部にそのような近代的な発想は持てなかった。
 全国的政党としての自由党は、このころすでにその役割を終えていたと言える。

 1883年夏には、出版会社設立・錬武館建設のための10万円の募金を集める方針が決まり、募金要請のため常議員が各地を回るが、困窮の度を深める地域にあって、地域の現実に立ち向かう姿勢など持たない政治屋集団でしかない自由党に資金が集まるはずもなく、外遊以降、解党を度々口にしていた板垣は運動を続ける意欲を完全に喪失する。

 1884年10月の解党大会直前の板垣は、大会前の相談会(準備会)の席で、「目今地方ハ非常ニ不景気トカ云ハルルモ此不景気ノ前スラ出来ナイモノカ今日不景気ヲ口実トスルハ甚タ欲セサル処ナリ」「有一館カ出来タナレバ金ヲ出スト云ヒ其有一館カ立テバ地方ハ不景気デ金カ揃ハヌトカ何トカ云ヒテ実ニ困ル次第ナリ」と述べている。

 板垣は、松方デフレによる不景気など、金を出し渋る口実だとしか、受け止めていない。
 残念ながら板垣は、近代政党の指導者としての能力を、そもそも持っていなかったのだろう。

 一方、地域の現実に命を賭して取り組もうとしていた自由党員もいた。
 そのような活動こそが、近代政党たるゆえんである。
 上・武・信一帯で結集した在地自由党員が、自由党という幻想に幻惑された前近代的な人々であるかのように評する論者もいるが、それこそ的外れだと思う。

(ISBN4-7664-0604-2 C3032 \3200E 1987,4 慶應通信 2021,3,31 読了)