須田努『幕末の世直し 万人の戦争状態』

 江戸時代末期の世直し状況が、特に意識の面でどのような状況だったのかを論じており、興味深い。

 百姓一揆に一定の作法があったことは、知られている。
 百姓一揆は、その形態はともかく、領主への恩頼感を前提とし、領主による仁政を要求するのが基本だった。
 したがって、武器ではなく農具を携行し、百姓を襲撃するなどということは論理的にもあり得なかった。

 そのような作法が破れてくるのは宝暦・天明期で、その傾向が顕在化するのは天保期だという。
 天保期の代表的一揆である郡内騒動においては、領主に対する要求はとくになく、国中地方の豪農・豪商が襲撃の対象となり、陣屋への襲撃も発生した。
 最初は米の強借要求だったものが、国中に入ってから一揆に加わった人々により打毀しが始まり、武力で鎮圧されるまで騒動は継続した。
 途中から参加した「悪党」と呼ばれる人々によって一揆は変質し、一見した限り無秩序に近い破壊行為が中心となった。
 著者は、郡内騒動後半の状況が「幕末の世直し」の特徴だと言われる。

 慶応に入ると武州・上州・野州で世直し騒動が起きる。

 慶応2年の武州一揆は、郡内騒動に似た経過をたどった。
 参加者は「悪党」などと呼ばれ、もともと警察機能が不十分だった武州の多くの地方では、村々によっては自衛団を作って参加者と戦ったり、農兵が鎮圧に動いた。

 慶応4年の西上州の世直し一揆は、農兵取り立てへの抵抗から始まって、豪商農への打毀しが広範囲に展開した。
 一揆は東征した新政府軍の到着により、ようやく鎮定した。

 野州では、元治元年から翌年にかけて天狗党が一帯を荒廃させる経験を持っていた。
 慶応4年に、尊攘派を自称する武装グループが出流山で挙兵し、幕府軍との戦闘が始まるなかで、世直し一揆が起き、豪商農や代官所を襲撃して、宇都宮藩兵により鎮圧された。

 世直し一揆はおおむね、質地証文・借用証文の破棄、金穀の安売りや融通などを要求し、不当な利益を貪ると考えられた豪商農を制裁するとともに、それを妨害する権力とも対峙した。
 世直しとは、よりよき世を実現しようとする、漠然たる願望であり、具体的な社会構想などは持たなかった。
 世直しはまた、社会の秩序を破壊するものととらえられたため、豪商農にシンパシーを持つ人々は自衛団を組織して、武器を持って一揆勢と対決した。

 こうしてみると、主たる対立は貧民層対豪商農層であり、治安維持機能のもともと脆弱だった幕藩権力の無力さが白日のもとに晒されたことがわかる。
 そのことは、新政府軍に有利に働き、幕藩権力の瓦解を後押ししただろう。

 著者は、豪商農層にも幕藩権力にも向けられた世直し騒動の暴力的エネルギーは、コントロール困難なものだったと考えておられるようだ。
 それはおおむねそのとおりだと思う。

 しかしこの状態が秩父事件まで継続するという説には首肯しかねる。
 秩父事件は、高利貸・警察・軍に対し武力を発動したが、全体の指揮系統は最後まで維持されており、武力の行使はコントロールされており、無軌道な破壊や略奪の事例は多くない。

 著者は秩父事件=世直し一揆論に引きずられたのだろうか。

(ISBN978-4-642-15707-3 C0320 \1700E 2010,11 吉川弘文館 2021,3,3 読了)