藤野裕子『民衆暴力』

 新政反対一揆・秩父事件・日比谷焼討事件・関東大震災時の朝鮮人虐殺において、民衆が暴力を振るったことの意味について考察している。

 近代史上の重要事件でもあるこれら四つの事件における民衆暴力を検討することで、著者が何を明らかにされようとしているのか、よくわからないし、米騒動に全く論及されていない理由も不明である。
  歴史的なできごとを、民衆の振るった暴力という側面に着目して比較検討するという方法はそもそも、歴史学的にどれだけ有効なのだろうか。

 戦後におけるメーデー事件や60年安保闘争、60年代末の全共闘運動などにおいても、「民衆暴力」といえるような局面が存在した。
 自分が学生だった1970年代になっても、自治会を僭称する人々によって、学内で暴力事件が発生していたし、自分自身それを体験した。
 これらの戦後「民衆暴力」は、明治・大正の「民衆暴力」と歴史的にどういう関係にあるのだろうか。それを明らかにすることにどれだけの意味があるのだろうか。

 田代栄助は武装蜂起し、須長漣造は武装蜂起しなかった。
 いずれも、松方デフレによる民衆の困窮を救済しようと民衆の組織化に奔走した、民衆のリーダーだった。
 民衆の組織方法にも共通点のあった武相と秩父の大きな相違は、在地の自由党のあり方だった。
 歴史学が究明しなければならないのは、その点だろう。

 著者は、維新期から民権運動期における民衆思想を、通俗道徳論をベースに考えておられる。
 安丸良夫氏の通俗道徳論とは、農民層分解が進み(「農民層分解」という用語が適切かどうか今の自分には疑問である)、荒廃が進んだ幕末の在地においては、勤労・節倹などの精神論(すなわち通俗道徳)によって個々の経営や村の共同性を立て直そうとする思想的底流が存在し、通俗道徳では解決し難い事態に直面したときに世直し騒動や「ええじゃないか」のようなカタルシスが起きる、といった論であり、例えば色川大吉氏の『明治の文化』は、秩父事件を通俗道徳論によって解釈していたと記憶する。

 通俗道徳論は、論理としてはわかりやすく、自分もかつて非常に惹かれたが、通俗道徳が幕末民衆に一般的な精神世界だったと考えるのは単純過ぎる。
 幕末・維新期のように社会の大きな変革期には、通俗道徳の枠にはまりきらない多様な人格が出現し、なかには民衆運動のリーダーになる人も出てくると考えるほうが実際に近いのではないか。

 秩父事件参加者の多くは、「自由党による世直し」という解放幻想に惑った人々だったという説を、著者もとられている。
 自分としては自由民権運動を、人として生存可能な社会制度を幕藩制時代のような「仁政」によって担保するのでなく、自分たち自身の団結の力で実現していこうとする民衆運動と捉え直したいと考えている。

 歴史的に類似の民衆運動として、中世末・近世初頭の本願寺王国が想起されるが、ここでは本願寺が支配者、国人層は中間支配者だったのであり、門徒は基本的に、支配者の命令を受けて戦闘に参加した。
 従って、参加者するかしないかを自己決定する余地はまったくなかった。

 また、世直し騒動は制度の変革をめざしたものではなく、参加した人々が求めたのは漠然たるユートピアだった。
 人として生存可能な社会制度を民衆自身の力で実現していこうとする運動は、近代になって初めて成立する。
 須長漣造も、制度の変革を構想するには至らなかった。
 秩父事件がなぜ、国家の暴力装置と正面から衝突せざるを得なかったのかといえば、制度の変革をめざしたからである。

 「自由民権運動」を「自由党・立憲改進党に指導され近代的な政治理念のもとで闘われた反政府運動」のように狭義に定義することが不当だと言い募る気はないが、それだと日本の民衆がようやく生活に根ざした国家的な制度変革を自覚し始めた意味が、明治史のなかで正しく評価されない。

 近代に価値があったのかなかったのかが、問われている。
 近代が訪れたことによって失われたものは多い。
 しかし、「自由」の思想といい「立憲政治」といい、近代の到来によって人間はかけがえのないものを得たのではなかったか。

 自由民権運動の再定義の必要を強く感じる。

(ISBN978-4-12-102605-7 C1221 \820E 2020,8 中公新書 2021,2,23 読了)