桐野夏生『日没』

 『1984年』よりはるかにリアルで、恐ろしい小説。

 ここに描かれている世界にリアリティがあるのは、現実世界において『日没』の世界が着実に実現しつつあるからである。

 先の政権において、共謀罪や組織犯罪処罰法改正などの治安立法が成立した。
 これらは無差別テロなどの計画・実行を防止するという名のもとに成立が強行されたのだが、法律は、成立しさえすれば、権力によっていかようにも解釈され、適用される。
 これらの成立により、市民の自由な意見表明やパフォーマンスを、いつでも弾圧できる法的根拠をはすでに整った。

 市民による主権行使が権力の恣意によりいかようにも制限できるようになった一方、権力者およびその周辺のコバンザメどもによるれっきとした犯罪は、権力・警察・検察・司法により、堂々と見逃されるようになった。

 収容所に監禁された主人公の作家マッツ夢井は、徹底的な監視・暴言・肉体的・精神的虐待に加えて、薬物投与により、心と肉体を破壊されて、反抗と恭順の間を激しく揺れ動きながら、最後は投身するため海辺の崖へと向かう。

 作中における夢井の絶望は痛々しく、読むに耐えない。
 小説なのだから、どこかにハッピーエンドが準備されているかと思いきや、最初から最後まで夢井は傷つき、絶望し、自己を破壊され続ける。

 夢井を監禁した総務省の「文化文芸向上委員会」が、現実に存在していても、おかしくない。
 安倍政権時代には実際に、『官邸ポリス』なる諜報機関が官邸周辺に存在し、菅政権になってもブラックリストに載った学者に対する理不尽な攻撃が行われた。

 この小説に描かれているもう一つの恐ろしさは、文学・芸術の価値や問題点を権力が判断することである。
 文学・芸術は、感性の表現である。
 そこに価値観が表出される場合もあるが、それは、政治的・社会的価値そのものではなく表現行為なのであり、文化・芸術は表現としてどうなのか評価されるべきである。

 作中の「文化文芸向上委員会」の官僚たちは、権力が設定した基準により、「良い小説・悪い小説」を分別し、「良い小説」を書くように夢井に強いる。
 まともな作家・芸術家・学者であれば、ここがもっとも恐ろしいところだろう。
 学問にとって、「良い研究・悪い研究」を国が決めるなどありえないのだが、それはすでに始まっているのだから、これほどリアリティのある話はない。
 

(ISBN978-4-00-061440\5 C0093 \1800E 2020,9 岩波書店 2021,2,15 読了)