祖田修『鳥獣害』

 帯に「いま、日本で起きていること」とあるので、鳥獣害の現状や対策について書かれた本かと思ったが、そうではなく、主題としては、人と野生動物との関係についての思想史的な考察が中心の本。

 「日本」が抱える課題の中で鳥獣害は、列島の生態系を動揺させ、人の生存を危機に陥れる重大な課題だと思うのだが、あまり議題になっていない。
 この本にも、現実的な処方箋は示されていないと思う。

 野生動物をどうみるかとか、植物の生命をどうみるかいう問題を考えることは決して無駄ではなかろう。
 人はそのような問題について、あまりにも考えてこなさすぎたから。

 異なるそれぞれの環境において棲み分けることにより種が成立していると説く、今西錦司氏の棲み分け進化論は面白いと思う。
 ダーウィン進化論では、イワナの地域個体群の成立を説明するのは困難だと思うが、今西説だといくらか論理的に説明できそうだ。

 温暖化の影響を比較的に早く受けた伊豆半島以西に棲みついた個体群は、陸封歴がやや長い集団であり、何らかの理由で成魚の白斑が目立たない形態的特徴を出現させた。
 もっとも北に生息し、最後まで陸封されなかった個体群は、古い形態的特徴を保持したまま現在に至っており、その中間の個体群は形態的にもその中間的形態を持つ。
 等々。

 ところで本書は、国や地域による野生動物観の相違を、宗教の教理から説明しようとしている。
 その方法は一定程度は有効であるかもしれないが、緻密な議論として成り立たせるのは困難だと思う。

 そもそも「日本の思想」と「西洋の思想」を比較するなどというのは、きわめて壮大なテーマである。
 本書には、穀物食中心の日本では西洋と比べ鳥獣肉の摂取が少なかったという記述があるが、ヨーロッパにおいても日常的に肉食していたのは貴族階級の一部だけだろう。
 どのような根拠に基づいてこのように記述されているのか。

 江戸時代の飢饉に関する記述で「飢饉で窮するのは、食べ物を生産する農民自身であり、もっとも悲惨なのは消費地・都市ではなくて農村であることに複雑な思いが走る」という文章がある。
 著者は、飢饉で餓死者が都市でなく農村に出てしまう理由をご存じないのだろうか。

 ジビエ消費の振興が鳥獣害と山村振興をともに解決するという俗論が、ここでも語られている。
 一般論としてそれは間違っていないが、殺害した野生鳥獣を解体し、調理可能な状態へと精肉し、変質しないように保存するための人員と設備を維持する費用は、国土と人の生存基盤を保全する義務を負う政府が負担すべきだが、そのほとんどはハンターのなどのボランティアに全面的に依存しているのが現実である。

 山村の生活環境を保全することは、列島の屋台骨を保全することなのだが、都市民の多くは目の前の都市をいじくり回すことにしか関心を持っておらず、山村で人が暮らし続ける必要など、まったく理解していない。
 妄想に近い空論でなく、現実に立脚した議論でなければ意味がない。

(ISBN978-4-431618-3 C0236 \820E 2016,8 岩波新書 2021,2,2 読了)