高木俊朗『抗命』

 インパール作戦の全体を第31師団の動きをメインに描いた書。

 初版刊行は1966年らしい。ビルマ方面軍の河辺司令官は1965年、第15軍の牟田口司令官は1966年の没、第31師団の佐藤師団長は1959年の没(本書によれば1961年没)だから、執筆時に主要な関係者は存命だった可能性が高く、インパール作戦は遠い過去の歴史でなかった。

 記述は佐藤中将の手記をメインに、牟田口中将の手記や帰還兵の手記を多用して記述されており、前半部分では、第31師団の戦闘と撤退の実情が生々しく描かれている。

 作戦が破綻したあと、方面軍・15軍幹部は、師団に責任を負わせる工作を始める。

 そもそもインパール作戦は、第15軍が発案したものであるが、最終的に大本営の承認のもとで開始されたものであり、失敗の責任は大本営が負うべきだったと思われる。
 計画は正しかったのだが、実行者がヘボだったというなら、それを論証しなければならない。
 そうしないならば、権力を付与されている者たち(天皇を含む大本営構成員)は、人の命を弄んだゲームを楽しんでいたと言われても、仕方あるまい。

 31師団の佐藤師団長の抗命案件が、軍としてどのように処理されたのかは、あまり明確に書かれていない。
 佐藤は師団長解任後、ラングーンで軟禁状態におかれ、軍医による精神鑑定を受けた。これにより、抗命罪を逃れることになったが、インパール作戦の不当性を公的に訴えることはできなくなった。

 河辺・牟田口両司令官らは、佐藤を軍法会議にかけて処刑することを考えていたフシがあるが、佐藤が軍法会議で徹底抗戦すれば作戦の疎漏さが明らかになるのではないかと恐れて、佐藤を狂人扱いにして軍人として抹殺したという筋書きのようだ。

 本書には書かれていない精神鑑定書には、佐藤の精神状態に異常はないと書かれているようだ。
 にもかかわらず佐藤に対する軍の処分は行われなかった。
 抗命罪が成立すれば処刑は免れなかったはずだ。

 佐藤の処分については、ウヤムヤになったと解釈するしかないのだろうか。

(ISBN4-106-715102-2 C0195 \380E 1976,11 文春文庫 2021,1,25 読了)