Nスペ取材班『戦慄の記録 インパール』

 現地を含め、生存者からの取材を交えてインパール作戦の全体を素描した本。

 取材を受けた生存者はほぼ90歳代半ばの方ばかりだが、証言は生々しい。
 
 計画なき作戦の悲惨な実相については、詳細な従軍記がある。
 困難な取材だったと推察されるが、本書は、作戦の責任の所在に迫ろうとしている。

 インパール作戦を強行した責任者として必ず名前のあがる牟田口廉也第15軍司令官は、自分は上司の命令に忠実に全力を尽くす以上のことをしていないと主張している。
 はたしてそれは事実か。

 作戦の発案者は牟田口司令官だったが、彼に決定権があったわけではない。
 牟田口の直接の上司はビルマ方面軍司令官の川辺正三だった。
 川辺が作戦計画を承認した理由の一つは、「牟田口が日中戦争当時の部下だったから」だった。

 ビルマ方面軍の上部機関の南方軍総司令官・寺内寿一の意見は「牟田口が信念を持ってやるというなら思うようにやらせたらよい」だった。
 さらに最終的な決定権を有する大本営の参謀総長・杉山元は「寺内さんの初めての要望であり、(略)なんとかしてやらせてくれ」だった。

 インパール侵攻は大本営の承認した作戦であり、牟田口司令官が独断で実行したものでないことはご本人の言う通りである。
 問題はそこに、根拠に基づく合理的な判断がまったくみられない点である。

 作戦の頓挫がほぼ明らかになった時点で、大本営が方面軍を視察した。
 一部参謀から作戦の継続に疑問が出たが、現地司令部はあくまで作戦は順調だという判断を上申し、参謀総長・東條英機は天皇に対し、既定方針の貫徹に努力する」と奏上している。
 これで、作戦中止はほぼ不可能となった。
 牟田口司令官があくまで作戦遂行にこだわったことが犠牲を大きくしたとの言説も、正確でないのである。

 インパール作戦の闇は、牟田口個人にではなく、帝国陸軍の組織のあり方にあったといえる。

(ISBN978-4-00-061285-2 C0021 \2000E 2018,7 岩波書店 2021,1,20 読了)