保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』

 瀬島龍三の評伝。瀬島については、数多の伝説がある中で、最も深く取材された本だと思われる。

 瀬島は、大本営では処理能力に優れた参謀だったが、敗戦前に関東軍に異動していたため捕虜となり、長期の抑留を体験した。
 抑留時代の彼については、自分でも多く語っているが、そのかなりの部分が正確でなかったり、意図的に隠蔽されている。

 戦争指導者として、敗戦が本意でなかったのはやむを得ないが、そうなる前になすべきことを行っていたのであれば、他日のために、また歴史への誠実さのために、事実をきちんと語るのが、自立した個人というものだろう。

 瀬島は収容所ではソ連側に迎合する言動をなしたという。
 その後、(ソ連に対する)スパイ容疑で刑を受けたのだった。
 彼にとって、最もふれられたくないのは、この部分だから、自分からは決してこのことを語らなかった。

 瀬島の処理能力の高さは、ビジネスマンとして一段と高く発揮された。
 ビジネスの内容については、『沈黙のファイル』に詳しい。

 賠償ビジネスはきれいな仕事ではないが、きな臭い仕事ではない。
 軍用機ビジネスは、利益の多い仕事だし、軍人時代の人脈を発揮できる仕事だったと思われるが、本書を見ると瀬島は社長に対し、撤退を進言している。
 丸紅がロッキード事件で大きな打撃を受けたのだが、先見の明と言うべきか。

 瀬島の名が国民に広く知られるようになったのは、第二臨調や臨教審の委員として、中曽根康弘の片腕として活躍するようになってからだった。
 中曽根は、自分の意に沿う結論を出しそうな人々を集めて審議会を作り、あたかも公平・公正な議論が行われているようにみせかけて、国会を無視してものごとを決めていくやり方の先鞭をつけた。
 土光敏夫はその表看板に祭り上げられ、ピエロの役回りをになった。

 第二臨調は結果的に、国鉄と国労を破壊したことが最大の成果で、本来の目的だった財政の健全化には、なんの効果もなかった。
 国会を軽視する政治の嚆矢が中曽根政治だったのだが、瀬島は、その参謀役だった。

 このころから瀬島は、過去を多く語るようになったが、最も語りたくないシベリア時代については、重要な事実には口を閉ざしたままだった。

 瀬島がふれられたくないシベリア時代についての追及が鳴りを潜め、11年間の強制労働を強いられたという虚像が定着する中で、瀬島は引き続き「日本の参謀」の役回りを演じようとした。
 彼は、第一次安倍政権時代に「美しい国づくり」に向けた提言を行っている。
 中曽根の時代同様、政治家に戦略・戦術を授ける形で国家に影響力を及ぼそうとしたのだろう。

 しかし、彼に求められた最も大きな役割は、歴史への正確な証言だった。
 その点について彼は結局、まったく何をもしなかった。

(ISBN978-4-16-749403-2 C0131 \505E 1991,2 文春文庫 2020,8,24 読了)