有泉貞夫『星亨』

 自由民権運動の論客だった星亨の一生を描いた書。

 激化事件、中でも秩父事件あたりに注視していたのでは、自由民権運動の本質が見えなくなる。
 星亨は、自由党-大同団結運動-憲政党-立憲政友会と、明治の反体制派の本流に位置していた政治家だった。
 彼の歩んだ道をみると、自由民権運動の各潮流がどのような流れだったのかを、俯瞰することができる。

 自由民権運動が退潮に向かった時代に彼は、活動意欲を失った板垣退助を立てて、テロや武装蜂起に走ろうとする人々に与せず、自由党の組織を支えようとした。
 大同団結運動のときには、自由党時代からの宿敵改進党系とのヘゲモニー争いをしつつ、旧自由党の結集に尽力した。

 帝国議会開設後は、アメリカ公使時代・東京市議時代を間にはさみつつ、衆議院議員として民党の実力者として、暗殺されるまで活動した。

 国会開設は、自由民権運動最大の目標であり、民権家たちの希望だった。
 帝国憲法による大きな制限があったものの、国民による選挙が実施され、国民の代表が国政を議することができるようになった。
 ところで帝国議会は、民権期に開設請願署名に賛同した人々の期待に答えることができただろうか。

 政局を裏面で左右したのは、現金による取引や、テロリストと紙一重の壮士たちによる脅迫だった。
 星はそのような世界にどっぷりと浸かっていた。
 政治家としての星の存在を支えていたのは、汚れたカネだった。

 憲政党から政友会に至る時代の星の政治的立場は、伊藤博文ら藩閥官僚と何ら変わるものでなかった。

 だからといって、自由民権運動が所詮そのようなものだったと決めつけるのは早計であるかもしれない。
 自由民権運動が挫折する過程で失われた可能性を探るのも、歴史の仕事だと思う。

 ところで著者は、秩父事件についても、注目すべき論及をされている。
 著者は、「もし困民党が勝利するか政府が困民党の要求を受け入れていたら」と問題を設定し、「全商品経済を混乱・麻痺させ、そこからの回復は、外国勢力(資本)の介入下に、日本経済の植民地的経済化として果たされるといった結果につながったのではなかろうか」と述べられている。

 秩父困民党の経済要求自体は、正当なものだったが、松方デフレ政策もまた、「日本」の経済的自立を維持する上で必然だった。
 自由党はおそらく、経済政策を持っていなかっただろう。

 本書は、「自由民権百年」の運動のさなかに刊行された。
 その当時これを読まなかった自分の不明を恥じるばかりだ。

(1983,3 朝日新聞社 2020,8,19 読了)