落合延孝『八州廻りと博徒』

 江戸時代末期の関東在村における風俗取締の実態を詳述した書。

 19世紀以降、関東在村では風俗取締が地方支配の重要課題だった。
 関東の地方支配を担当した勘定奉行は、地芝居・手踊りなどの遊芸や諸興行、日常的に賭博や暴力行為を働く遊民の横行などが、在村を疲弊させていると認識し、取締りの強化を図っていた。
 文化2年(1805)の関東取締出役の設置と、文政10年(1827)の改革組合村の設置は、その一環だった。
 本書が主として依拠している記録の筆者・渡辺三右衛門も、上州玉村宿組合の大総代だった。

 ずっと以前に、祭礼・遊芸や諸興行は思想史的にどのような意味を持っていたのか、考えてみたことがある。
 そのときには、度重なる禁令に抗してこれらが行われることによって、人々が幕藩制的な支配秩序から緩やかに離脱することにつながるのではないか、というような仮説を得たのだが、いささか大雑把にすぎる立論だった。

 各種遊芸・諸興行は、アマチュアの楽しみである一方、芸術と呼ぶに値するレベルに達するものもあったはずである。
 幕藩権力から問題視された原因は、これらの興行が多額の金銭を費消する点にあったのだが、人に楽しみを追及をやめよというのは、なかなかに無理がある。
 従って、禁令がしばしば出されることによって、それらの禁令に効果がないことを人々に知らしめることになってしまう。

 博徒とは、プロの賭博師だが、それが真実かどうかはともかく、「強きを挫き弱きを助ける」という心性を持つと思われていた。
 そのような認識が存在しなければ、博徒は単なる遊民であり、社会の寄生者でしかなかったから、「強きを挫き弱きを助ける」とは、博徒にとって存在理由をなす心性だった。
 秩父困民党の総理・田代栄助もまた、裁判でそのような自己認識を語っていた。

 とはいえ、江戸時代の博徒が支配秩序を正面から否定するような意識を持っていたわけではなく、それはあくまで「逸脱」に過ぎなかったと思われる。
 田代栄助は立憲政体樹立を語り、国家権力と激突した。
 彼の心性は、江戸時代の博徒と同一ではない。

 いささか興味深かったのは史料の筆者・もと大惣代三右衛門が直接の支配者だった関東取締出役を罵倒する文言を書き残している点だった。
 村役人は、支配機構の末端にあって、小前を直接掌握し、小前を日夜、支配秩序に馴化しなければならない立場にあった。
 小前の生活状況をある程度知悉する一方で、権力側の無能や腐敗をも目にする機会が多かったはずである。

 村役人層の秩序意識も動揺していたのが幕末だったのだろう。

(ISBN4-634-54490-3 C1321 \800E 2002,11 山川出版社 2020,6,24 読了)