若狭蔵之助『秩父事件-農民蜂起の背景と思想』

 秩父事件を経済過程と政治過程、すなわち真正面からの分析を試みた書。

 本書は、全三章から構成されている。
 第一章は、困民党の組織過程についてで、風布村を例に詳述されている。
 この部分については、著者が以前書かれた論文を踏襲したものと大きな違いはない。

 第二章は秩父・西上州における養蚕・製糸業の展開過程の分析を通じて民衆経済がどのように変容したかを明らかにしている。
 この部分は非常に重要であり、味読すべきである。

 著者は、秩父事件前の生糸生産を「分散的マニュファクチュア」と定義づける。
 これは、前期的農村労働者が村工場に集って働く工場制マニュファクチュアとは異なり、糸引き工程は養蚕家が自宅で行い、揚げ返し工程は揚げ返し会社が行う形のマニュファクチュアだという。
 分散マニュには資本制のものと共同出資によるものがあった。

 著者は、困民党の中核は中農-貧農だと述べる。
 根拠となる数字は特にあげられていないが、富農-中農上層は耕稼で生計が営めるから負債を持たず、生産手段から解放されていた極貧農も負債を負わなかったという。
 このあたりはちょっと雑駁すぎるきらいがある。

 秩父の民衆が失おうとしていた土地の意味について、著者は、耕稼のための土地(食糧生産のための土地?)であり生糸再生産の資本だという。
 蚕室や桑さえ手に入れば、養蚕・製糸は不可能でないが、桑畑なしでの養蚕は難しいだろう。

 かくて、秩父民衆の闘いは、経済的には、自らの資本制生産を維持するための闘いだったと、著者は位置づける。

 政治過程については、群馬事件の経過をあとづける中で、分析している。
 志士を気取る民権運動の活動家や理論家らの言説は、著者の言われるとおり、「妄想」だったと思う。
 問題は、いかにして民衆を民権運動に組織しようとしたかであり、民衆の経済的な要求をいかにして政治要求へと昇華しようとしたかだろう。

 私は、山林集会に自由党員が参加したかどうかが決定的な意味を持ったと考えている。
 群馬では、豪農党員が負債民の共感する立場を獲得し、中・下層民が自由党員との接触によって政治的に覚醒するという流れができていた。
 それは、秩父困民党形成過程の原型となったのであり、同様の流れは、上武県境地帯で部分的に始まりつつあった。
 このことについて、私は、別の機会に報告した。

 著者が示された方向で、もっと研究を進めたい。

(ISBN4-87889-249-8 C0021 \1800E 2003,11 埼玉新聞社 2020,5,25 読了)