上田正昭『帰化人』

 「日本」という国家が存在したという偏見を取っ払わなければ、古代史を見誤る。
 それはまた、国境の存在を取っ払うということでもある。

 官製の歴史(「学習指導要領」の語る歴史)は「弥生時代の日本」などと、おそらくは意図的に、不正確な表現を用いて記述されている。

 畿内周辺を支配する権力の来歴も、いまだ明確に論証されていない。
 さらに、畿内政権が成立したのちにも、列島と朝鮮半島の間に「境」は存在しなかった。

 ある程度はっきりしているのは、文化・文明は半島から列島へと流れてきたということだ。

 その後半島には、主として朝鮮族(ではないかと思われる)による三つの国家が成立し、パワーゲーム状態となった。
 畿内政権もこれに参加した。
 北九州の地方政権(磐井)がゲームを主導したこともあった。

 歴史書(教科書を含む)には、半島に成立した国家の国境線が記載されているから、当時も国境が存在したかのように誤解してしまうが、国と国の境はファジーなものであり、それが故に文化・文明の流通が容易に行われたのである。

 文化・文明を生産していたのが、中華帝国だったことは事実だが、畿内政権がはそれを享受するには、中国に近い半島の国家と比べ、物理的にやや不利だった。
 畿内政権の友好国は百済、ついで高句麗だったが、パワーゲームとは別に、知識人・民衆の持つ知識や技術は、政権にとって最も魅力的だったから、「人」の流入は政権としても望むところであり、渡来人は基本的に厚遇された。
 学者は数多の知識を伝授し、技術者は土木・金属加工・音楽・農業・行政実務などの分野を担当して政権を支えた。
 東漢氏や秦氏のように、政権深くに食い込み、権力の一端を担った人々もいた。

 平安時代以降、畿内政権と最も遠い関係にあった新羅が半島を統一し、畿内政権は一見、鎖国状態となった。
 南九州や東北を支配下に入れ、九州・四国・本州の民を掌握して、小帝国化した列島国家にとって、大陸文化はさほどありがたくもなくなったらしく、渡来人は以前と比べて冷遇されるようになる。

 読んだ内容を再構成すると、そんなところだ。
 しっかり押さえたいのは、どんな文化や技術が渡来人によってもたらされたのか、である。

(ISBN4-12-100070-6 C1221 P680E 1965,6 中公新書 2018,5,27 読了)