松本清張『カミと青銅の迷路』

 この巻は、「通史」ではなく記紀の時代における、考古資料の意味について、作家が縦横に推理した叙述となっている。

 推理が飛躍しすぎていると感じられる部分もなくはないが、基本的には、きわめて実証的にさまざまなにテーマについて論じている。

 ひとつは古墳について。

 弥生時代の墓と古墳には連続性がなく、過渡的な形の墓もない。
 これを見る限り、弥生人が突如として墳墓の築造に目覚めたとは考えにくく、大陸から墳墓築造の技術・習慣を持つ人々が渡来したとしか、考えられない。

 そうすると、それがどのような人々だったのかと、ダイナミックな歴史の想像が可能になる。

 もう一つは、銅鐸を始めとする青銅器の意味について。

 銅鐸の使い方については、記紀が編集された時代にはすでにわからなくなっていたらしい。
 そこで古代史家は、「何らかの祭祀的意義を持つものだろう」と、適当に意味づけているが、それとて確たる根拠があるわけではない。

 著者は、銅鐸や銅剣など実用的でない青銅器は、宝物として自分を荘厳するために、権力者が収集し、地下に保管したものであるとの見解を述べられている。
 青銅器はところにより、大量に出土することもあるのだが、これなら、たいへん理解しやすい。

 各種青銅器の中で、意味づけをきちんとしなければならないのは、三角縁神獣鏡である。
 三角縁神獣鏡は、卑弥呼が魏の皇帝から与えられたものだというのが「通説」らしいが、それはどう考えても無理がある。
 魏の年号が入っているにもかかわらず中国・朝鮮で発見されず、列島で大量に出土するのは、列島で制作されたと考えるのが自然だろう。

 魏志倭人伝にさえ人口3000人程度の「国」とされている「邪馬台国」が列島を支配していたという話を論証する証拠の一つが三角縁神獣鏡なのだが、それが妄想に過ぎないことは、どう見ても明らかだ。

 四世紀初頭は、列島に大きな動きがあった時代なのである。

(ISBN4-06-183727-3 C0121 P380E 1987,11 講談社文庫 2015,11,6 読了)