ユン・チアン『マオ』(上下)

 毛沢東の伝記。
 上下で1100ページを超える大著であり、脚注や参考文献は本には収録されておらず、出版社のサイトからダウンロードできるようになっている。


 サブタイトルに「誰も知らなかった毛沢東」とあり、創立直後からの中国共産党のリーダーであり、抗日戦争・国共内戦を戦った人民中国建国の父といった毛沢東にまつわる伝説を粉砕している。

 高文謙『周恩来秘録』は、主として文革期における毛沢東と周恩来の関係に焦点を当てた労作だが、こちらは、青年期から死にいたるまでの毛沢東伝説を丁寧に検証しており、毛という人物が横暴で小心で疑い深く、実務能力や戦略立案能力に欠けた、中国民衆にとって災厄以外の何ももたらさない人間だったことを論証している。

 毛沢東は読書好きではあったが、マルクス主義者だったかどうかは疑わしい。
 毛にとって、共産党員であることは、権力を握る上での近道だったに過ぎない。
 まして、1920〜1930年代といえば、マルクス主義の創造的研究など、世界のどこを探しても存在せず、スターリンやコミンテルンの意に沿う言動であるかどうかが、真理を測る基準だった。
 毛沢東は、ソ連共産党以上に忠実にスターリン主義を継承した。

 長征は、国民政府軍による追討からの展望なき敗走だったが、毛沢東にとっては、紅軍で自分の権力を確立するためのチャンスでしかなかった。
 毛は、「ライバル」と目された友軍を意図的に敗北させ、紅軍のヘゲモニーを握った。
 敗走の途中で粛清された兵士もそうだが、個人の権力欲のために無駄死にさせられた数千名の紅軍兵士は浮かばれない。

 長征の終着点だった延安は、中国革命のメッカなどではなく、のちの文化大革命の原型となる大衆洗脳=「整風運動」の恐怖政治が支配していた。
 無実の人間が狂気状態の大衆の前に引き出され、拷問を交えた糾弾にさらされ、最後は公開処刑される。
 共産主義が正しいと考え、抗日のために紅軍を志願した若者たちの多くが、ここでまたも大量に無駄死にした。

 紅軍のスポンサーはスターリンだったから、毛が気をつけるべきはスターリンの機嫌を損ねないことだけだった。

 抗日戦争・国共内戦において、「農村から都市を包囲する」作戦が毛沢東によると信じられていたが、この戦略も彼ではなく、劉少奇が主張したもので、毛沢東はこれに最後まで反対し続けていたという。

 内戦に勝利したのちの毛沢東の目標は、世界を支配することだった。
 文革の伏線だった「大躍進」の大失敗は、覇権のための無理な工業化を、毛沢東が強制したのが原因だった。

 破綻した工業化・農業の無理な集団化を継続するか否かをめぐる路線対立が、文革の序曲だった。
 路線問題を謀略と暴力によって解決しようとした毛沢東の忠実な手先として働いたのが、周恩来と林彪だった。

 文革の火をつけ、風を煽っていた江青らは、毛沢東の手駒に過ぎない。
 周恩来らに支持され、サポートされて初めて、文革は可能となった。

 文革は、党と人民に忠実であろうとした有能で誠実な共産党幹部を粛清するにとどまらず、国中の官僚・教師・知識人すべてを粛清することを目的としていた。
 抗日戦争から内戦期を経て文革期に到るまで、中国共産党の歴史は、内部抗争と粛清の歴史だったと言える。

 大躍進と文革によって、中国は長年にわたる混乱に沈んでいった。
 アメリカとの関係改善は、ソ連と対抗戦略に過ぎなかった。

 晩年の毛沢東は、権力の維持に妄執する毎日だった。
 有能な手下だった林彪を死に追いやり、忠実な吏僚だった周恩来がガンに倒れても、治療を禁じ、迫害し続けた。
 周恩来がいなければ、毛沢東の権力などありえなかったのに、毛沢東は周恩来を憎悪し続けたのである。

 毛沢東が死に、「四人組」が逮捕され、文革が否定されてようやく、中国は平穏となった。
 しかし、毛沢東はまだ、否定されていないし、共産党の支配は続いている。
 中国の苦難の歴史はまだ、終わったわけではない。

(ISBN4-06-206846-X C0023 \2200E 2005,11 講談社 2010,3,1 読了)
(ISBN4-06-213201-X C0023 \2200E 2005,11 講談社 2010,3,1 読了)