なだいなだ『民族という名の宗教』

 社会主義体制の崩壊という現実に際して、社会主義とは何か、民族とは何かという問題を考えようとする、架空の対談。

 既成のカテゴリーを使って現実を解釈しようとすると、どこかに必ず無理が生じる。
 無理を合理化するために、各種ごまかしなどの論理操作が不可欠となる。
 著者は基本的に、疑うべからざる論理的前提なしに、社会主義や民族を語っているので、頭を柔らかくすることができて好感が持てる。

 著者の考えるところによれば、民族とは実体のある概念ではなく、近代国家成立にともなって作られたフィクションであるという。
 この指摘は重要だ。

 言語をはじめとする文化を共有する集団を民族と呼ぶという概念規定が使われたこともあった。
 そのような集団が存在するのは事実だが、集団としての共通性より多様性の方がはるかに大きい。
 豊富な多様性を有する文化的集団をひとくくりの概念で捉えることの有効性は、ほとんどない。

 著者は、より共通性の多い集団を「部族」と呼ぶ。
 日本列島の文化は、地形と気候の多様さに起因する、地域的個性の総体である。
 著者の言う「部族」という単位なら、文化的まとまりとして、十分に有効であろう。

 「民族」がフィクションであれば、「国家」など、フィクションに基づく妄想以外の何ものでもない。
 「国家」に誇りを持つというのは、妄想に憑かれた人々のウワゴトである。
 存在もしない「国家」なるものに帰属感を生ぜしめるよう教育するなど、贖宥状を販売していた宗教改革以前のカトリックと同程度のインチキである。

(ISBN4-00-430204-8 C0236 \700E 1992,1 岩波新書 2010,2,1 読了)