上林好之『日本の川を甦らせた技師 デ・レイケ』

 「これは川ではない。滝である」という、日本の川を評した言葉で有名なお雇いオランダ人、デ・レーケの伝記。

 デ・レーケ自身の回想などは残されていないが、彼が先輩であり上司にあたるJ・エッシャーにあてた大量の書簡が残っているらしく、全体としてはなかなか詳細な、大著に仕上がっている。

 この本を読むと、明治初年に治水行政の分野にどのような課題が存在したかがよくわかる。

 新政府にとって重要なのは、築港だった。
 陸運が未発達だった明治前半まで、物資輸送の中心は水運に依存していた。
 蒸気船が発着可能な港湾や、河川を利用した内陸水運にとって、堆砂対策は重要な課題だった。
 さらに淀川や木曽三川の下流域における洪水もまた、根本的な対策を必要としていた。

 堆砂の問題は、デ・レーケも指摘しているように、治山の問題である。
 江戸幕府は、治山については、明治政府以上に骨太で長期的な政策を持っていたはずだ。
 デ・レーケが民衆による乱伐を嘆いている事実は、維新後、短期間の間に、近畿地方の里山利用が紊乱したということを意味しているのだろうか。

 本書がおおむね、デ・レーケ書簡に基づいて記述されているため、歴史的な背景についての目配りは欠けていると言わざるを得ないが、著者は建設省の技術者とのことであり、歴史的な記述はないものねだりというほかない。

 明治の治水は、オランダの技術を導入して構築された。
 技術には当然、得手不得手があるわけで、脊梁山脈から激しく流下する列島の河川を治めるのに、地形の全く異なるオランダの技術を導入したことが適切だったかどうかは、素人には判断しがたい。

 本書には、江戸時代やそれ以前の治水技術についての言及がほとんど見られない。
 著者は「徳川時代の河川管理が拙かった」と決めつけておられるが、果たしてそうだろうか。
 力学的な計算に基づいて水のエネルギーを計算し、そのエネルギーに勝る人工物を構築するというのが、近代の技術だが、そのような計算を「科学的」と勘違いしてはいないか。

 暴れる水のエネルギーが克服すべき対象であることを自明のこととして考えるのが、ヨーロッパ人の発想であるが、暴れる水とさえ共生しようとするのが、列島の民の知恵だった。
 体系化されてはいないが、幕府・勘定所を中心に、列島の地形・気候に即した治水技術が存在したはずだが、西洋の技術を導入したために、それは受け継がれなかったようだ。

 そうは言っても、オランダのやり方がそのまま日本で通用するわけがない。
 デ・レーケらは西洋の治水を日本の現実に適用すべく、試行錯誤を重ねたはずであり、それは決して無駄ではなかっただろう。

 コンクリートによる治水がどのような技術的系譜の上に存在するのか、よく知らないのだが、デ・レーケのやり方は日本列島の急流を制する上で合理的に考えられていると感じる。

 淀川のワンドを作り出した水制工などはその好例であり、この技術があって、イタセンパラを始めとするワンドの生態系が保存されたともいえる。

(ISBN4-7942-0928-2 C0051 \2500E 1999,12 草思社 2009,10,28 読了)