義江彰夫『神仏習合』

 列島の民の心の歴史を明らかにする試み。
 史実と論理によって、平安〜鎌倉期の神仏習合の実態と意味を説き明かしている。


 本書でも特に吟味なく列島を指す「日本」という用語が使われている。
 しかし「日本」の範囲は、列島(本州・四国・九州及びその周囲の島嶼)よりはるかに狭く、かつその範囲自体定まってもいないと思わねばならない。

 著者は、列島には、基層信仰としての神祇信仰が存在したという。
 それらはおそらく、ごく多様な呪術的信仰だっただろう。
 律令国家は、それら神祇信仰を束ねることによって、支配下の民を精神的に統制しようとしていた。

 一方奈良時代は、支配者が仏教の呪術的パワーによって、臣下や人民の統制をはかろうとした時代だった。
 そして平安時代以降、「日本」の在来の神は、仏教への帰依を表明し出す。
 より普遍的な信仰への宗教的深化が、変化の基底に存在した。それが、信仰の基盤となる生活からの遊離を伴っていなかったかどうかは不詳である。

 修験の始まりそのものが不詳なのだが、平安初期以降ころには、山岳の滝や岩場の霊力をわがものにするための苦行により、超能力の会得をめざす行者が存在し、俗世とは無縁に修業に励んでいた可能性がある。
 修験道としてある程度体系化される以前のプレ修験道とでもいうべき存在である。

 彼らの多くも、自己の能力がオーソライズされることを欲していた。
 支配者たちもまた、陳腐化した国家仏教に代わる新たな宗教的権威を求めていた。
 それらの要求に応える理論と方法を提供したのが、空海だった。

 9〜10世紀には、怨霊信仰あるいはケガレ忌避観念など、新たな宗教的観念が支配階級を席巻した。
 それらの想念を理論的にすくい取ったのが、浄土思想である。
 浄土思想は、民衆レベルでは、親鸞のように思想的に純化するものや、一遍のように身体で信仰を表現するものへと深化した。

 神祇信仰が民衆レベルで仏教的に粉飾されていったのは鎌倉時代初頭で、本地垂迹説という理論的装置が使われた。
 この理論がどこまで民衆の精神世界に浸透していたのかは、地域によっても異なるだろうし、検証は難しいだろう。

 室町〜戦国期には、多くの民衆が自ら積極的に信仰行動に動くようになる。
 「蟻の熊野参り」などは、そのような信仰行動の一つであろう。
 かれらの信仰行動を支えていた理論がどのようなものだったのかまでは、本書に記されていない。

(ISBN4-00-430453-9 C0221 P740E 1996,7 岩波新書 2009,7,31 読了)